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【大会等】
◆日本ポピュラー音楽学会第24回大会
2012年12月8日~9日 武蔵大学(江古田キャンパス)
※NEWSLETTER95号に報告を掲載
【関東地区】
◆第1回研究例会
日時:3月25日(日)15:00〜17:30
会場:法政大学大学院 政策創造研究科 新見附校舎A501教室
修士論文発表会
※NEWSLETTER92号に報告を掲載
「ライナーノーツ研究」
高橋聡太(東京芸術大学大学院音楽研究科音楽文化学芸術環境創造領域修士課程)
音盤に付された解説書であるライナーノーツは、レコードやCDとともに広く世に出回り、多くの人々に読まれている。とりわけ英米のロック・アルバムが日本盤としてリリースされる際に書きおろされるライナーノーツでは、一般的なレコード評とは異なる独自の批評文化が育まれてきた。
しかし、ライナーノーツを重点的に取り上げた研究は過去に類を見ない。ライナーノーツはアルバムを聴く際にざっと読まれるものであり、その影響は意識されにくい。また、録音媒体/ジャンル/リリースされる地域/リリースされるタイミングといった要因によって規定されるライナーノーツの形式と内容は、アルバムごとに異なる相貌を見せるため、一概には捉えられない。
こうした問題点を念頭に置いた上で、本研究ではロック日本盤のライナーノーツに対象を限定した文献調査を実施。曖昧な読まれ方ではなく書き手の確固たる意識に目を向け、決まった定義を与える代わりに時代ごとの変化を追うことによって、ライナーノーツに関する包括的な理解の構築を試みた。
今回の発表では、修士論文全体の論旨をふまえた上で、過剰なまでの肯定性を特長とする今日的なロック日本盤ライナーノーツが、ライナーノーツ文化全体の中どのように位置づけられ、どのように生まれ、どのような歩みを辿ってきたのかを報告する。
「日本におけるネットレーベルの活動―音楽コンテンツの生産・流通とコミュニティの形成」
日高良祐(東京芸術大学大学院音楽研究科音楽文化学芸術環境創造領域修士課程)
本研究の目的は、ネットレーベルと呼ばれる活動とはどのような社会的実体であるのかを明確にし、そこでの音楽コンテンツの生産・流通がどのような意味を持った行為として捉えられているのかを明らかにすることである。ネットレーベルとは、インターネットを介してMP3ファイルを無料で生産・流通させている音楽レーベルのことを指す。2009年ごろから日本では数を増やしており、Twitterの利用によるユーザー間の活発なコミュニケーションが特徴として見られる。
調査は日本のネットレーベルを対象とし、そこで行われているコミュニケーションに注目した考察を行った。調査方法としては、ネットレーベル主宰者へのインタビュー調査、クラブイベントでの参与観察、そしてウェブ上で展開されるコミュニケーションへの参加を実施した。
まず、既存のレコードレーベルが音楽コンテンツを生産し流通させるためのシステムとネットレーベルとを比較し、そこから得られた2つの論点について考察した。すなわち、CGMの特徴であるコンテンツの流動性をネットレーベルがどのような歴史的経緯において獲得してきたのかという点、またネットレーベルの活動では具体的にどのようなコミュニケーションが行われているのかという点の2つである。これらへの考察から、ネットレーベルとはコミュニティとして機能しているということ、そして、そこで行われている音楽の生産と流通の行為は、ユーザーによるコミュニケーションの行為として機能していることが明らかになった。
◆第2回研究例会
日時:5月25日(金)18:30〜20:00
会場:東京芸術大学北千住キャンパス 音楽学部音楽環境創造科第一講義室
※NEWSLETTER93号に報告を掲載
司会:毛利嘉孝
“Toward a Typology of Intertextuality in Protest Songs:
Revolution Remixed in Antinuclear Songs of Post-Fukushima Japan”
Noriko Manabe (Princeton University)
Despite Hiroshima and Nagasaki, Japan has pursued a program of expanding nuclear power, enabled by tight relationships among the electric power companies, central and local governments, and the media that go back to the beginning of the Cold War. Since Fukushima, public opposition to nuclear power has grown widespread in the face of the perceived lack of trustworthy, timely information on radiation from officials. Nonetheless, the mainstream media has carried little non-official information and ignored protests, while some antinuclear figures have suffered consequences. Under these circumstances, music—in sound demonstrations, performances, and cyberspace—has emerged as an important conduit for the voicing of antinuclear sentiments.
Protest songs, by their very nature, are highly intertextual; they refer to current issues either directly (e.g., through lyrics that quote officials) or obliquely through metaphors. In addition, they often refer to historical movements, thereby accessing the listener’s feelings about that movement and compounding the songs’ power through semantic snowballing (cf. Turino). Classifying types of intertextuality would be useful for analyzing how musicians choose to convey their messages, and how they are received.
Using Genette’s classification of transtextuality as a starting point (with references to Lacasse), I formulate a typology of intertextuality for protest songs. These types include hypertextual covers (with changed lyrics), remakes and reinterpretations, mash-ups, metaphors, and allegories; intertextual quotations; paratextual uses of promotional or concessionary materials; and architextual adaptations of style for strategic purposes. In order to analyze reception, I overlay Peircean models of how signs take on meaning and are interpreted. My analytical process considers signifying parameters (e.g., texts, music, performance, visuals), referred events, and dynamic responses.
I apply this process to analyze the music of the Japanese antinuclear movement post-Fukushima, overlaying findings from interviews with artists and protesters, to describe the methods by which musicians deliver their antinuclear messages. Through writing new lyrics to existing songs, quoting hip-hop classics by Gil Scott-Heron and Public Enemy, performing satirically as electric-power officials, adapting light-hearted matsuri (festival) styles, or using metaphors (e.g., Godzilla), musicians comment on nuclear policy and draw parallels between this movement and World War II, antiwar protests, and African-American struggles.
“THE SMALLEST MUSIC IN THE WORLD:
VIDEOGAME SUBCULTURES AND NOSTALGIA FOR THE FUTURE”
Martin Roberts (Independent Scholar)
This paper addresses the emergence over the past decade of a new kind of digital musical object which I call nanomusic. Variously known as 8bit, blip-hop, or chiptune music, these new musical objects originated through the hacking of the sound-cards of vintage console video games produced by companies such as Atari and Nintendo, and were aesthetically inspired by their soundtracks. In recent years, the rapid growth of mobile software development and social networking sites have intensified the production and exchange of such musics, which are today the focus of a thriving subcultural community in the U.S., Europe, and Japan. The paper will consider nanomusic in relation to three main areas: new media histories, including mp3 and other digital music formats, peer-to-peer networking, and mobile technologies; DIY culture, hacking, and subcultural resistance; and recent critiques of the “retromania” of postmodernist media culture. Attention will also be given to questions of aesthetics, notably hybridization with other forms of popular music, and performance at festivals and other live-action venues.
◆第3回研究例会
日時: 12月22日(土)14:00~17:45
会場:武蔵大学 江古田キャンパス 1号館1203教室
※NEWSLETTER96号に報告を掲載
司会:南田勝也(武蔵大学)
「メディアの影響と表象:日本のパンク受容の再検討」
今井晋(東京大学大学院)
「日本でロックが熱く語られていたころ」
高橋聡太(東京芸術大学大学院)
「ロックとアカデミズムの間には、深くて暗い谷があるの?」
難波弘之(ミュージシャン/東京音楽大学)
「刺激的な異文化から平凡な日常へ」
井上貴子(大東文化大学)
【関西地区】
◆第1回研究例会
日時:5月19日(土)16:30~19:30
会場:関西学院大学 大阪梅田キャンパス 10階1005号室
※NEWSLETTER92号に報告を掲載
混淆・越境・オリエンタリズム
―「玫瑰玫瑰我愛你」(Rose, Rose, I Love You)の原曲とカヴァー・ヴァージョンをめぐって」
西村正男(関西学院大学社会学部)
1940年に上海で姚莉によって吹き込まれた「玫瑰玫瑰我愛你」(陳歌辛作曲)は、洗練されたアレンジと中国風のメロディラインで好評を博した。この曲が世界的に有名になったのはフランキー・レインによるカヴァー・ヴァージョンで、ビルボード・ヒットチャート3位に入るヒットとなった。本発表では、同曲のオリジナルと幾多のカヴァー・ヴァージョンを比較し、また台湾やシンガポールにおける受容のされ方を比較検討することにより、西洋の東洋に対するオリエンタリズム的眼差しや、東洋でそのような眼差しが内面化されていく様相を浮き彫りにしたい。
「弘大前インディ文化の構造転換」
高原基彰(関西学院大学社会学部)
「弘大前」は、90年代半ば以後、韓国・ソウルにおいて、サブカルチャーの中心とされてきた場所である。本報告では、この場所の帯びてきた意味性の変化を跡付けることとしたい。具体的には、2002年の日韓共催ワールドカップを契機とした、文化的都市開発の盛り上がりの中で、弘大前文化に仮託されてきた政治的イデオロギーが希薄化していったこと、それが音楽的実践や業務形態の変化(ライブハウスからクラブへ)をともなっていたこと、そして弘大前のさらなる振興が目指される中で生じたこれらの変化が、結果的にこの場所の地盤沈下傾向をもたらし、現在でもそれが続いていることを指摘したい。
◆第2回研究例会
日時: 6月9日(土)16:00~19:00
会場: 関西学院大学 大阪梅田キャンパス 10階1002号室
※NEWSLETTER93号に報告を掲載
「音と映像との「対位法(コントラプンクト)」再考―初期トーキー映画理論を軸に」
長門洋平(国際日本文化研究センター機関研究員/京都外国語大学非常勤講師)
映画の音楽をめぐる理論的言説において、音と映像との対位法という概念は一般に「特定の映像に、あえてその意味内容とは対照的な印象を持つ音楽をかぶせることによって映像の意味を強調する、あるいは新たな意味を付与する手法」と理解されることが多い。しかしながらこの考え方は、本来の音楽理論としての「対位法」とはその概念構造が微妙にずれている。さらに、1920~30年代の「トーキー革命」期に大きく喧伝されることにより世界的に波及したこの用語は、必ずしも常に対照性(コントラスト)を含意していたわけではなかった。本発表では、主に以下の論点に注目しながらこの概念を再検討・整理する。①対照性、②映画を構成する各要素の自律性、③「垂直モンタージュ」あるいは「ポリフォニック・モンタージュ」、④異化効果、⑤映像のナラティヴ、音響のナラティヴ、⑥「効果」のベクトル、⑦フレーム外の音とその深度。
「「腹話術」としてのポピュラー音楽―クルーニング唱法を手がかりに」
秋吉康晴(神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程)
1920 年代末に登場した「クルーナー」、なかでもルディ・ヴァレーとビング・クロスビーは、20 世紀のポピュラー音楽史においてある特別な地位を与えられてきた。それはマイクロフォンを忠実な複製の媒体ではなく、ひとつの「楽器」と見なし、テクノロジーに根ざした歌唱のスタイルを確立したからであるとされる。それでは、「クルーニング唱法」とそれ以前のテクノロジーに依存しない歌唱スタイルは、受容経験においてどのように異なっていたのだろうか。本発表ではこの問題を声から聞きとられる歌手の身体性という観点から考えてみたい。そのために本発表では「声のきめ」(ロラン・バルト)を批判的に検討し、バルトの問題を乗り越えるための手がかりとして「腹話術」(ジェイソン・トインビー)という観点を導入して考察したいと思う。
◆第3回研究例会
日時:6月30日(土)17:00~19:30
会場:関西学院大学 大阪梅田キャンパス 14階1404号室
※NEWSLETTER93号に報告を掲載
修士論文発表会
「“Well, You Needn’t”―セロニアス・モンク、アミリ・バラカ、公民権運動におけるジャズのポリティクス」
山田優理(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科博士後期課程)
本研究は、ジャズ・ピアニストであるセロニアス・モンク(1917−1982)が20世紀を代表する黒人作家・音楽批評家であるアミリ・バラカ(リロイ・ ジョーンズ)によってどのように表象されたか、また、モンク自身は自らの人種及び音楽の社会運動における役割をどのように把握していたのかを比較、考察するものである。
ブラック・アーツ運動の立役者であるアミリ・バラカが1960年代に取り入れた政治的急進主義の視点からジャズ批評を試みるという手法はそれまでリベラルな白人が多数を占めてきたジャズ批評界を震撼させたが、アヴァンギャルド・ジャズという同時代の音楽と政治的に結びついて一定の勢力を誇った。この時代にバラカが積極的に音楽批評を試みるようになった理由には彼の政治思想がニューヨークのダウンタウンを中心としたボヘミアニズムから黒人ナショナリズムへと移行しつつあったことが背景にある。黒人独自の政治意識および美的観点の構築を試みたバラカは、アヴァンギャルド・ジャズはビバップの後継者だと主張することで自らが率いる政治運動の正当性を証明しようとしたが、この言説においてモンクはジョン・コルトレーンと並び重要な位置を占めた。
一方、一般的に政治には無関心であると認識されていたモンクだったが、彼の言動を詳細に分析してみると、そのような言説が必ずしも正しいわけではないことが証明される。むしろ、他の黒人演奏家同様、モンクが公民権団体の主催する慈善コンサートに参加したという事実は彼の社会運動に携わりたいという意識の顕れともみてとれる。であるがしかし、本研究では、演奏家達の慈善コンサートへの参加は、彼(女)らの政治意識の高さを裏付けるものでは無く、公民権運動のような社会運動の勢力の絶大さ、政治が芸術創造活動に与える影響の強さを示しているとする解釈を試みた。演奏家から社会勢力への視点の転換は、偉人列伝を中心に据えたジャズ史を肯定するか否かという問題を巡り方向性が見出せなかった近年のジャズ研究に新たな可能性を提示するものであると主張し、本研究のまとめとしている。
「クルーナー唱法の生成―アメリカ合衆国における音楽・メディア・社会」
福永健一(関西大学大学院社会学研究科マス・コミュニケーション学専攻博士後期課程)
本論は1920年代後半頃、アメリカ合衆国において生じた、ポピュラー音楽の歌唱法であるcrooning(クルーナー唱法)およびその歌手を指すcrooner(クルーナー)についての研究である。クルーナー唱法は、「電気マイクロフォンの登場によって可能となった、男性による、小声でささやくような歌唱法」というのが一般的な認識である。
本研究では、クルーナーがテクノロジーに依存した歌唱法である、というようなナラティブとは異なった議論を展開する。特に1929年に登場した、最初のクルーナー歌手であるとされる、Rudy Valleeに着目する。当時のアメリカ社会は、消費社会が立ち現れ女性が消費者として明確に想定されるなど、「女性」が発見された時代である。その一方でマス・メディア産業、特に音楽、映画、ラジオといった諸産業が重層的、多元的に編成されてゆく。そのような、アメリカ合衆国において生じていた地殻変動を歴史的に敷衍し、社会的コンテクストからクルーナー唱法が生成されてゆく様を論証することが本論の目的である。
◆第4回研究例会
日時:10月13日(土)14:30~17:30
会場:関西学院大学 大阪梅田キャンパス 14階1404号室
※NEWSLETTER94号に報告を掲載
細川周平(編著)『民謡からみた世界音楽 うたの地脈を探る』合評会
評者:鈴木慎一郎(関西学院大学)、粟谷佳司(立命館大学)
編著者:細川周平(国際日本文化研究センター)
執筆者:輪島裕介(大阪大学)、長尾洋子(和光大学)
【中部地区】
◆第1回中部地区例会
日時: 11月18日(日)13:30~17:00
会場:愛知県立大学サテライトキャンパス 愛知県産業労働センター15階
※NEWSLETTER94号に報告を掲載
「グローカル化するアラビアの唄」
エドガー・W・ポープ(愛知県立大学)
この発表では昭和初期の日本で大ヒットし、オーストラリアでも人気があったアメリカのジャズソング、「アラビアの唄」(”Sing Me A Song of Araby”)についての研究結果を提示しながら、その国際的な旅をエキゾチズムと音楽産業のグローバル化のなかのグローカル化の一例として取り上げる。19世紀にヨーロッパで発展した中東に対するエキゾチズムは文化製品の国際流通によってアメリカやオーストラリア、そして日本にも普及した。中東エキゾチズムの流れを受け継いだアメリカの音楽産業の製品として1927年に出版された「アラビアの唄」は楽譜、ピアノロール、そしてレコードの媒体で輸出され、日本とオーストラリアでは地元のミュージシャンや企業によってローカル化された。一方オーストラリア発売のためにはアメリカで録音され、日本発売のためにはドイツで録音されたことから、グローバルな音楽産業のいわゆる「中心」のミュージシャンも「周辺」のローカル化に関わっていたことがわかる。この一曲の歴史にみられるさまざまなグローバル化とローカル化を考察する。
「巷で大人気であった三拍子曲〈籠の鳥〉と、時を超えて愛唱される三拍子曲〈故郷〉の歪み」
三井徹
1924年(大正13年)に大人気となった〈籠の鳥〉は三拍子曲であるのに、当時の録音では、一ヶ所が四拍子になってしまう。
作曲者である鳥取春陽の歌唱は、例外的に三拍子を一貫させているものの、同年に上演された演劇「籠の鳥」の主役、歌川八重子をはじめとした録音では、全八小節の旋律の第四小節が四拍子になっている。歌詞の一番で示せば、「逢いたさ/見たさに/こはさを/わすれ」の「わすれ」の後が一拍ではなく二拍伸びる。この歌を全国で口ずさんだ老若男女も同様であったに違いない。そして実は、これは当時に限ったことではなく、特に無伴奏の場合、いまにも持続する。
三拍子曲としては欠陥と言えるその第四小節と同じことが、名曲として親しまれてきている1913年(大正2年)高野辰之作の〈故郷〉(ふるさと)にも共通している。伴奏なしの気ままな歌唱や独奏では、全十六小節の後半部の「夢は/今も/めぐ/りて」の「りて」の後に二拍が続く。
それに基づく展開は、三拍子に不馴れというよりも日本人のリズムが基本的に二拍子に基づいているという程度にしか示せず、発表は指摘の域をさして出ない。
それでも指摘には値するかなという判断です。