The Japanese Association for the Study of Popular Music

日本ポピュラー音楽学会 卒論修論発表会2025

日時 2025年3月15日(土)

会場 ZOOMによるオンライン開催+オフライン会場(関東地区・関西地区)

・関東地区:武蔵大学江古田キャンパス

・関西地区:大阪市立大学杉本キャンパス

 

*ZOOMアドレスは会員宛にメールニュースでお送りしています。非会員でも参加可能ですが、非会員で参加を希望する方は、知り合いの会員にアドレスを聞いてご参加ください。オフライン会場の詳細についても同様に会員にお尋ねください。

 

オンライン・オフラインどちらの参加でも構いません(発表者・参加者とも)。オンライン開催を主軸としますので、オフライン会場にお越しの方もPCやタブレットなどオンライン参加可能な機材をご持参ください。会場でのWifi接続は可能です。各会場ごとに終了後、懇親会を行います。

 

プログラム

*発表ごとの要旨は下に記載していますので、スクロールしてご覧ください。

 

13:00-13:05         会長挨拶

 

部会A 司会:星川彩(大阪大学大学院博士後期課程)

13:05-13:30         山田陽菜(京都精華大学メディア表現学部音楽表現専攻)

SNSによって生じる「関係労働」から、地下アイドルの労働環境の問題点と解決策を考える

13:30-13:55         弓掛遼太郎(武蔵大学社会学部)

労働は音楽の聴き方を左右するか ――リスク社会における労働と消費文化――

13:55-14:20         堀海斗(武蔵大学人文科学研究科社会学専攻博士前期課程)

ラップカルチャーにおける社会関係資本の比較分析 ―「カルチャーがクラブハウスから生まれるM県」と「カルチャーがサイファーから生まれる東京都」―

 

14:20-14:35(休憩)

 

部会B 司会:加藤夢生(ロンドン大学ゴールドスミス校グラデュエート・スクール・フェロー)

14:35-15:00         中尾莞爾(横浜市立大学国際教養学部)

音楽サブスク主流の聴取環境における新たな差異の体系の検討

15:00-15:25         信田知成(立教大学社会学部メディア社会学科)

融解する VOCALOID のキャラクター性 −「メルトショック」による初音ミクのキャラクター性の変遷について−

15:25-15:50         清水将也(東京大学大学院学際情報学府博士前期課程)

「丸サ進行」の時代ーポピュラー音楽のマルチモダリティ分析ー

 

15:50-16:05 休憩

 

部会C 司会:加藤賢(大阪大学大学院博士後期課程)

16:05-16:30         手塚透徹(立命館大学文学部日本文学研究学域)

国文学研究のディシプリンにおけるポピュラー音楽検討の一例

16:30-16:55         鈴木岳志(東京外国語大学大学院総合国際学研究科世界言語社会専攻言語文化コース博士前期課程)

ブラジルポピュラー音楽史の政治性:「友愛の音楽」ショーロの「正史」に映るナショナリズムの影

16:55-17:20         永田幹人(早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士前期課程)

『ミュージック・ライフ』における「ヘヴィメタル観」の形成

17:20-17:45         松本迪大(立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程前期課程)

現代における選曲実践の分析:「語られる選曲」とミュージッキング再考

 

 

17:45-17:50 閉会の辞

 

 

 

発表要旨

 

部会A

 

■山田陽菜(京都精華大学メディア表現学部音楽表現専攻)

SNSによって生じる「関係労働」から、地下アイドルの労働環境の問題点と解決策を考える

 

現在の地下アイドルを取り巻く労働環境は非常に悪く、労働者として守られていないという現状がある。

「働き方改革」など、2010年後半からの働き方の検討と逆行し、芸能界の労働環境は悪く、またネット上での交流が大部分を担ってくる中で、ソーシャルメディア(SNS)への投稿に関しての検討がなされていない。地下アイドル研究においては地下アイドルを取り巻く問題や労働環境に関する議論は少ない。

以上より地下アイドルを取り巻く労働環境は悪くなる一方で、これらに関する議論はなされておらず、送り手視点からの議論も少ないことが問題点である。

ここからメディア環境の変化(マスからソーシャル)によってどこまでが労働で、どこまでがプライベートなのかを区別することが難しくなってきており、これまでも劣悪であった労働環境はSNSの登場によりさらに悪化したと考えた。

本論ではナンシー・K・ベイムのSNSから生じる「関係労働」の概念を援用し、今後地下アイドルの労働環境をどのように解決していくべきか、特に今後のSNS活動はどうあるべきかを地下アイドルの経験がある筆者が送り手側の視点から研究を行った。

問題点を明らかにするため、Xの投稿から見る「SNS分析」と送り手側への「インタビュー調査」の2つの調査を行った。SNS分析を行った結果、「関係労働的なポストが義務労働的なポストより多い」、「関係労働性・義務労働性関わらず、ライブ告知に関するポストが多い」、「朝夜問わず1日中何かしらのポストが行われている」の3点が明らかとなり、SNSの「フルタイム化」が起こっていると推測した。インタビュー調査ではアイドル本人は労働だと深く認識していないが、側から見れば労働に該当するような言動が多く見られた。また休みなくSNSを開いていること自体、それがアイドル本人にとって良い・悪いはさておき、労働として認めることができ、地下アイドルのSNSにおいて「フルタイム化」が生じていることが明らかとなった。

以上、2つの分析から共通する問題点としてSNSの「フルタイム化」が上がった。ファン活動において「フルタイム・ファンダム」(大尾,2021)という言葉で語られるように、受け手のファン活動が“フルタイム化”しているが、送り手であるアイドルの「フルタイム・アイドル」化もその原因の1つではないかと考えた。このようなフルタイム化は本人にとって良い・悪いは関係なしに労働環境として問題であり、ベイムの言う関係労働と捉えられる部分であった。

解決策の方向性として、フルタイム化するSNSを動かす地下アイドルたちに給与や待遇面等で何かしらの還元を行えるような環境を運営や業界で作ることが求められるのではないかと考察した。

本研究により、アイドルに関する送り手側からの論文を増やすこと、地下アイドルの労働環境を改善するための1つの案を提示すること、日本に少ない「関係労働」に関する論文を増やすことを期待したい。

 

■弓掛遼太郎(武蔵大学社会学部)

労働は音楽の聴き方を左右するか ――リスク社会における労働と消費文化――

 

音楽は余暇に楽しむ趣味のひとつである。近年「働いていると趣味を楽しめない」という問題が注目を集めていることを踏まえ、本論では労働と余暇という観点から労働が音楽消費に与える影響について検討した。

余暇とは労働していない時間のことであるが、労働から完全に自由な時間ではなく、労働によって規制されている。本論では余暇を楽しむ上で「時間的余裕」「経済的余裕」「肉体的余裕」「精神的余裕」が必要であるとし、労働状況がこれらを圧迫しているかを検討した。「時間的余裕」は余暇時間がとれるか、「経済的余裕」は収入が十分かという問題だが、「精神的余裕」については様々なものが考えられる。ここではジグムント・バウマンらのリスク社会論を参照し、リスク計算が重要になったことで流動化した労働世界に対する不安が高まり「精神的余裕」がなくなっているのではないかという視点から検討することとした。

現代日本の労働状況をみると、依然多くを占める正社員において長期雇用は残存しており、労働者は解雇の危機に晒されているわけではない。しかし、就業者の中には長期雇用が維持されないと考える人が多くいる。また、正社員は賃金は高いが労働時間が長い、非正社員は労働時間が短いが賃金が低いという、労働時間と賃金の二者択一の状況がみられた。

また、学生も就職活動を通じて労働世界からの影響を受けている。近年、大学生の就職活動は早期化・長期化・煩雑化している。また、就職活動がもたらす不安が自己評価を低下させたり、文化消費を困難にしている状況も確認できる。

音楽の消費については、2021 年以降音楽への関心が高い学生と低い 20 代以上で二極化が進んだ。また、情報技術の発展により音楽はインターネットを通じてアクセスすることによって聴くものになっている。スコット・ラッシュによれば、このような文化消費は美学的判断や反省的判断を伴わない「遊び(プレイ)」的なものである。この議論を踏まえ、現代の音楽消費は「遊び(プレイ)」的なものになりつつあり、そのような消費の仕方は「働いてもできる文化消費」であるが、そうでない「鑑賞」的な消費をする際には十分な「精神的余裕」が必要なのではないかという仮説を立てた。

以上のことを踏まえ、労働と余暇の関係という観点から音楽消費について研究を進める上で重要なこととして、①労働世界と余暇世界を横断した調査や分析を行うこと②文化消費と格差の関係に注目すること③ワークライフバランスについて考える上では「精神的余裕」も考慮すべきであること④大学生活がモラトリアムではなくなっている可能性があること⑤逃避的に貪欲な文化消費が引き起こされる場合もあることを提示した。

 

■堀海斗(武蔵大学人文科学研究科社会学専攻博士前期課程)

ラップカルチャーにおける社会関係資本の比較分析 ―「カルチャーがクラブハウスから生まれるM県」と「カルチャーがサイファーから生まれる東京都」―

 

本研究の目的は,「カルチャーがクラブハウスで生まれるM県」と「カルチャーがサイファーで生まれる東京都」の二地域におけるラッパーの社会関係資本の特徴を比較し,それが「彼ら」の音楽活動やキャリア形成にどのように影響を与えているのかを明らかにすることである。この比較を通じて,日本におけるラップカルチャーが,異なる地域の社会的ネットワークによってどのように発展しているかを考察し,以下の三点を明らかにした。

第一に,M県のクラブハウスと東京都のサイファーが,それぞれの地域的特徴と社会的文脈を反映した〈現場〉として,日本のラップカルチャーの形成において重要な役割を果たしていることを明らかにした点である。M県のクラブハウスは,結束型社会関係資本を基盤とし,地元コミュニティ内での深い信頼関係を通じて,文化的アイデンティティを形成する場である。一方,東京都のサイファーは橋渡し型社会関係資本と弱い紐帯を活用し,多様なラッパーが交差し,新たな関係性を生み出す場として機能している。

第二に,地方都市と大都市圏という認識がラップカルチャーに与える影響が明確化された。本研究では,ラッパーたちの語りから「地方」と「東京」という枠組みが重要な分析視点として浮かび上がった。M県のクラブハウスは地元に密着した活動を支える一方で,東京都のサイファーは都市部特有の開放性や柔軟性を特徴とし,多様な背景を持つラッパーたちの即興的な交流を可能にしている。

第三に,〈現場〉の概念の拡張である。クラブハウスでは,地元の仲間との結びつきが真正性の基盤とされるのに対し,サイファーでは,即興ラップを通じた評価が真正性の証明として機能している。この違いは,2000年代以降の日本のラップシーンにおける,楽曲制作とMCバトルの二極化を通じて,ラッパーたちが自身のスタイルやキャリアを模索する過程を反映している。

このようにM県のクラブハウスが地元に根ざした信頼や結束を重視した文化的実践を支える一方,東京都のサイファーは公共空間における即興性や多様性を強調し,新たなつながりを生む場として機能している。この拡張された〈現場〉の概念は,従来のラップカルチャーにおける「クラブハウス中心」という枠組みを超えた発展を遂げていることを示唆する。さらに,地方都市と大都市圏という異なる社会的文脈がラップカルチャーに与える影響は,ラッパーたちが「地方」と「東京」という自らの語りを通じて文化的アイデンティティを模索し,形成するプロセスに深く関わっている。このことは,ラップカルチャーの多層的な展開と新たな可能性を示唆するとともに,地域性や多様性を理解する上での貴重な視点を提供している。クラブハウスからサイファーへの〈現場〉の拡張を含め,本研究は日本のラップカルチャーにおける動態と多様性を理解する基盤を構築する意義を有しているといえる。

 

部会B

 

■中尾莞爾(横浜市立大学国際教養学部)

音楽サブスク主流の聴取環境における新たな差異の体系の検討

 

本発表では、定額制音楽配信サービス(以下音楽サブスク)による聴取が主流となりつつある若者の音楽聴取の現代的な在り方をアンケート調査に基づいて検討する。検討に際して、ブルデューの文化資本論を援用し、「何を聴くか(What)」よりも「どう聴くか(How)」に焦点を当て、音楽を聴くという趣味実践の中に存在する「差異の体系」のアクチュアリティを描き出すことを試みる。なお、本発表は卒業論文「現代日本の若者の音楽聴取の多様化を捉える−メディア論と文化資本論にもとづく社会学的考察とアンケート調査をもとに−」のうち、主にアンケート調査による分析を紹介するものである。

従来の文化資本としての音楽は、その文化的正統性が音楽ジャンルにより区分され、「文化貴族はクラシックを聴く」(文化的排他性仮説)や「ハイカルチャーから大衆文化まで愛好するもの=文化エリート」(文化的オムニボア仮説)など音楽ジャンルの差異によって卓越化を説明するものがほとんどである(片岡 2019ほか)。しかし、金銭的な差異が発生しづらく、時空間の制約がほぼ無いことから聴衆によって聴取態度に差が発生する音楽サブスクというメディアの誕生や、音楽ジャンルの差異の融解、ことクラシック=高級の意識と実践としての聴取の遊離を鑑みるならば、聴取における卓越化の感覚は音楽ジャンルの差異の体系以外にも争点が存在するのではないか。

以上の疑問意識から、聴取における卓越化の感覚と聴取態度の関連を観測するために以下の指標を設定した。

①          聴取におけるコミットメントの強度

量的コミットメントの尺度:金銭・時間

質的コミットメントの尺度:知識・集中・身体性・未知(既知)

②          聴取における寛容性

ジャンル寛容性/排他性

コミュニケーション寛容性/排他性(アウトサイド志向/インサイド志向)

③          音楽趣味の自己評価(他者比較における卓越性の意識)

また、調査における分析課題は以下の通りである。

a). 若者はどのようなメディアを用いて音楽を聴取しているのか。そして利用メディアごとに音楽趣味の自己評価の高さや聴取スタイルに違いが生まれるだろうか。

b). 若者は音楽ジャンルを幅広く選好すること、または特定の音楽ジャンルを集中的に選好することによって卓越化を図っているか。それぞれにどのような差異の特徴があるか。また、音楽ジャンルに寛容な者=文化的エリート」という認識は正しいだろうか。

c). 若者はどのような聴取スタイルを取ることで自らを音楽趣味のセンスが良いと判断し、他者より優越しようと試みているのか。若者の音楽趣味の自己評価は、どのような差異の指標によって上昇するのか。

d).聴取の文化的正統性、つまり高尚な聴取から低俗な聴取までの聴取の序列は何によって評価されるか。「クラシック=高尚」といった音楽ジャンルの評価だけでなく、「コンサート=高尚」のような聴取メディアに付随する評価は文化的正統性の指標として成立するか。

これらの検討を経て、音楽サブスクのメインユーザーである若者において、音楽ジャンル以外にも聴取メディアの正統性や聴取のコミットメント、コミュニケーションの志向性など多様な差異の体系が存在することを明らかにする。

 

■信田知成(立教大学社会学部メディア社会学科)

融解する VOCALOID のキャラクター性 −「メルトショック」による初音ミクのキャラクター性の変遷について−

 

いわゆる初音ミク現象については、CGMやUGCなどの観点から多くの研究がなされ、初音ミクというキャラクターのキャラクター性自体の複製可能性やn次創作の連鎖などが指摘されてきた。しかしながら、初音ミク現象の初期のボーカロイドシーン(以下、ボカロシーン)における初音ミクのキャラクター性に対する意識の変容に関する研究は未だ乏しいと言える。そこで本研究では、初音ミク現象の初期に初音ミクのキャラクター性に対する意識に影響を与えたとされる「メルトショック」の分析を通じ、初音ミクのキャラクター性の変遷プロセスを明らかにすることを目的とした。

「メルトショック」は、初音ミク歌唱の楽曲《メルト》とその二次創作作品がニコニコ動画のランキング上位を占拠した出来事を指す。一方で、初音ミク現象の文脈においては、キャラクターソング中心であったそれまでのボカロシーンを転換し、その後のボカロシーンの流れを決定づけた出来事として語られることが多い。しかしながら、こういったボカロシーンの転換が「メルトショック」のみによって引き起こされた突発的・偶発的な現象であるかについて学術的検証はなされていない。本研究ではこの言説について検証し、ボカロシーンの転換のプロセスについて分析することを通じて初音ミクのキャラクター性の変遷を考察する。なお、分析にあたり、井手口彰典の「コントローラブル・アイドル」(井手口彰典、2017、「コントローラブル・アイドル−初音ミクにとっての 2010 年代−」、『コンテンツ文化史研究』、Vol.11-12、5-20。 )の概念などを参照しつつ、当時の雑誌記事やニコニコ動画上のテキストなどを対象に言説分析を行った。また、ニコニコ動画上におけるボカロ楽曲についてキャラクターソング・非キャラクターソングの枠組みのもと量的な調査も行った。

分析の結果、以下のことが明らかになった。第一にメルトショックによるボカロシーンの転換は言説の補強の影響こそ受けていたものも確かに起こっていたが、その変化は徐々に進行したものであった。第二に、初音ミクはその背後に消費され操られるキャラとしての初音ミクという文脈、楽器としての初音ミクという文脈、そして人間のシンガーの代用としての初音ミクという文脈を持つことが明らかになった。そしてこれらの文脈の影響により、崇拝される対象としての初音ミクの性格を強く反映したアイドル的楽曲、コントロール可能な対象としての初音ミクの性格を強く反映したフィギュア的楽曲及びその両方の性格を持つ楽曲が存在することが示唆された。第三に、初音ミクのキャラクター性の変遷プロセスは、初音ミク自身が持つ純粋な声の提供者としての性質の影響を受けつつ、以下のように進行したことが示唆された。すなわち、メルトショック以前からアイドル的、フィギュア的楽曲やその両者の性格を併せ持つ楽曲が存在したものも、 《メルト》の投稿の影響によりフィギュア的な楽曲群がより優勢になっていった結果、初音ミクのキャラクター性は背景化した。

これらの知見は《メルト》のみならず、より多様な文脈からの影響によりボカロシーンが転換したことを示すものであると同時に、初音ミクのキャラクター性の変遷プロセスに一定の説明を与えるものである。

 

■清水将也(東京大学大学院学際情報学府博士前期課程)

「丸サ進行」の時代ーポピュラー音楽のマルチモダリティ分析ー

 

本研究は,2020年代に流行した丸サ進行と呼ばれるコード進行に着目し,これが流行前後において各時代のヒット曲の具体的な表現にどのように影響を与えてきたのかを明らかにするものである.

1章では,コード進行を中心に,本論文を読むうえで必要な音楽的知識を整理し,本研究における丸サ進行の定義とその特徴についてまとめた.

2章では,本コード進行の過去のヒット曲を系譜的に整理し,実際のヒットチャートにおける丸サ進行の2020年代の流行の実態について明らかにした. また,この時期の丸サ進行のヒット曲について,とりわけ歌詞において「夜」という語が用いられる傾向を計量的に示した.

3章では,2010年代前半(2010〜2015)の丸サ進行と楽曲の具体的な表現の関係性について,椎名林檎『長く短い祭』を例に分析した. 本コード進行が主流でなく,とりわけ洒脱なものとして使用されていたこの時代,丸サ進行上では瞬間に没入するような,きらびやかで都会的な夜の物語が描かれていた.

4章では,2010年代後半(2016〜2019)の丸サ進行と楽曲の具体的な表現の関係性について,あいみょん『愛を伝えたいだとか』を例に分析した. 本コード進行の流行前夜にあたるこの時期には,とりわけループへの志向が強まっていき,繰り返される生活や変わらない夜の情景が描かれていた.

5章では,2020年代(2020〜2023)の丸サ進行と楽曲の具体的な表現の関係性について,ずっと真夜中でいいのに。『秒針を噛む』を例に分析した. 本コード進行が流行期を迎えるこの時期には,響きの印象が明暗にどっちつかずであることが停滞的なイメージとして認識され,歌詞やミュージック・ビデオでは,暗鬱で否定的な心象のメタファーとして夜が描かれていた.

終章では,これまでの内容を整理し,丸サ進行の用法やその認識の変遷が各楽曲における「夜」の意味内容の変化に具体的に影響を与えていたこと,またその雛形の現在形として位置付けられるのが「夜好性」なる現象であることを考察として述べた.

本研究を通じて,丸サ進行によって楽曲の意味世界が具体的に規定されていくこと,そしてそうして形成された意味世界を私たちが社会的な実態として生真面目に受容していくことで,音楽の側から私たちの社会的な認識が形成されていくことを明らかにした. このことは,音楽の内容は時代性を表すという従来の「歌は世につれ」という認識とは反対の,コード進行を起点に私たちの認識が形成されていく「世は歌につれ」という現象の一つとして捉えることができる.

 

部会C

 

■手塚透徹(立命館大学文学部日本文学研究学域)

国文学研究のディシプリンにおけるポピュラー音楽検討の一例

 

ポピュラー音楽の歌詞は往々にして「文学的」と評される。しかし、そもそも「文学」とは何であろうか。
国文学研究のディシプリンにおいて、文学作品として俎上に載せうるものはテキストに限らない。よって卒業論文ではライブのSEやMVといった、(本人による「歌詞」以外の)、あらゆるコンテンツをも対象に、参考として考え得る先行テクストを検討することで、キタニの諸作品における衒学的実践に対する或る読解の提示を試みた。
発表会では所属大学へ提出した卒業論文『堕地獄者のニヒリズム、及びイデオローグとしての実践──キタニタツヤの諸作品を中心に──』から、以下のように内容を要約して発表する。

まず、『包まれた街』の〈観想〉という語について。
この語は専ら「テオーリア」の邦訳語として知られるものの、仏教においては“仏や浄土の具体的様相を想起する”修行をいう。
グッズデザインの一部に、顔と身体が右斜め方向へ向いている(=影向する)仏が採用されたことがある。管見の限り先行作品は見当たらなかったが、アトリビュートからこれを普賢菩薩と仮定し、仏画や論考を用いて主張を補強する。

次に、『クラブ・アンリアリティ』の〈夢〉という語について、これを「夢中見仏」の「夢」として考えてみる。
『梁塵秘抄』二十六番今様の「仏」の正体としては、古典集成の注釈においては『更級日記』の「夢中見仏」が言及される傾向がある。しかし参考として考えられる仏典には釈迦の常住不滅を説く『法華経』、一心に念ずれば夢中に阿弥陀仏を見たてまつる、と説く『般舟三昧経』などがあり、何仏かは判然としない。この「仏」を普賢だとみる先行研究の読みを、『梁塵秘抄』の他の今様を用いて補強し、かつ『クラブ・アンリアリティ』の典拠として考えられるように説明する。
※『更級日記』において、阿弥陀如来は「このたびはかへりて、後に迎へに来む」と宣う。迎接、すなわち往生は日常との永訣を意味するため、「仏」を影向する普賢とみるほうが「夢」というものの一時性を強調でき、主題がハッキリしてみえる。

また『クラブ・アンリアリティ』がライブで演奏される際には、「クラブ」という楽曲のタイトルや〈極彩色マシマシのサイケな夢を見ようぜ〉という歌詞の通り、しばしば客席に向けて虹色のレーザーが照射される、ステージ上部にミラーボールが出る、といった演出が加えられる。
キタニはライブのMCでしばしば「音楽で人を踊らせたい」という旨を発言する。そこで「リズム」に着目して楽曲を整理してみると、変拍子の曲や途中で拍子やBPMが変わる(=踊りにくい)曲を「キタニタツヤ」名義では公開していない、ということが分かる。ここから入場SEとして用いられた、すなわち「引用」された既存の楽曲などとの関連を分析し、キタニの諸作品における詞の意味を考えていく。

 

 

■鈴木岳志(東京外国語大学大学院総合国際学研究科世界言語社会専攻言語文化コース博士前期課程)

ブラジルポピュラー音楽史の政治性:「友愛の音楽」ショーロの「正史」に映るナショナリズムの影

 

ショーロは十九世紀のリオ・デ・ジャネイロに「起源」を持つ、ブラジルの「国⺠的」文化として認知されているポピュラー音楽である。

ショーロはラジオ、レコード、コンサートなど多様な空間で実践され、ブラジル全土に流通してきた。しかしその「歴史」において、「本当のショーロ」は「ホーダ・ヂ・ショーロ」によって継承されてきたという語りがなされる。ホーダ・ヂ・ショーロとは「ショーロの輪」を意味し、ショーロの音楽家たちが⻑時間に渡って演奏を楽しむインフォーマルな寄り合いである。ショーロは、その実態の複数性とは裏腹に、⺠衆のインフォーマルな実践によって続いてきた⺠俗音楽として「歴史化」されているのである。

本論はこのような、ショーロの「真正性」をホーダ・ヂ・ショーロという実践に結びつけ、過去を一貫した⺠俗音楽の「歴史」として再構成するパラダイムを「ホーダ史観」と名付けることで、その構築と背景にある政治性を明らかにしていくものである。先行研究はショーロの「歴史」の自明性を解体し、ナショナリズムとの関係を中心に権力分析を行ってきた。しかし、ホーダ・ヂ・ショーロを十九世紀より連綿と続く「伝統」として自明視してきたために、「ホーダ・ヂ・ショーロ の音楽としてショーロの『歴史』が語られること」自体の権力性を見逃してきた。このような課題を踏まえ、本論゙はホーダ・ヂ・ショーロを「実体」ではなく「言説」として扱うことで分析を行った。

方法としては、ショーロ言説において重要な参照点となっているジャーナリスト、チニョラォン、ヴァスコンセロス、そしてショーロの音楽家、カゼスという三人の著者のテクストに見られる「本当のショーロ」 の語りの分析を行った。これらの分析を通じて本論は、「ホーダ史観」は 1990 年代にジャーナリストから音楽家自身へショーロの「歴史」の語り手が移行したことによってはじめて支配的な力を得たパラダイムであることを主張していく。ショーロの音楽家たちは出版物、教育機関、そして学術研究を通じて、ジャーナリストたちによって書かれた「歴史」をホーダ・ヂ・ショーロという「対面の実践」によって連綿と続いてきた、十九世紀に「起源」を持つ共同体の⺠俗音楽の物語として読み替え、「ホーダ史観」を構築したのである。

この言説はショーロに対して、ブラジルの「正統的」な過去を持つ「国⺠文化」としての「真正性」を付与する一方、「歴史」の語り手のポジショナリティを不可視化し、ショーロの過去をブラジル土着の音楽の物語として単純化する働きを持っている。それは、ブラジル社会における人種、 ジェンダー、階級に結びついた権力関係を隠蔽する傾向を秘めるものである。

 

■永田幹人(早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士前期課程)

『ミュージック・ライフ』における「ヘヴィメタル観」の形成

 

本研究は、音楽雑誌『ミュージック・ライフ』を分析し、イギリスで誕生した音楽ジャンル」であるヘヴィメタルが日本へ媒介・受容される過程、特にヘヴィメタル本質観(ヘヴィメタル観)の変遷を検討することを目的としたものである。

日本におけるヘヴィメタルを取り上げた先行研究としては、インタビューや文献調査を行い、ヘヴィメタル専門誌『BURRN!』にも注目したKawano & Hosokawa(2011)「THUNDER IN THE FAR EAST: The Heavy Metal Industry in 1990s Japan」や、ヘヴィメタルとヴィジュアル系ロックの関係を指摘した井上・森川・室田・小泉(2003)『ヴィジュアル系の時代—ロック・化粧・ジェンダー』があり、日本におけるヘヴィメタル受容の様相は一部が明らかになっている。しかし、日本におけるヘヴィメタルという音楽ジャンルの成立期を詳細に論じた研究はほとんどない。

そこで本研究が対象としたのは、1978年から1983年にかけて出版された『ミュージック・ライフ』とその増刊号のテキストである。これまで等閑視されていたが、1980年前後の『ミュージック・ライフ』は、同じシンコー・ミュージック社から1984年に創刊されたヘヴィメタル専門誌『BURRN!』の母体となった点や、発行部数の点から見て、日本におけるヘヴィメタル初期受容を明らかにするための重要な資料だといえる。

分析の結果、『ミュージック・ライフ』におけるヘヴィメタル観の変遷は、以下のように述べることができる。第一に、1979年、それまでハードロックが備える音楽的要素の名称にすぎなかったヘヴィメタルが宇都宮カズのジューダス・プリーストを取り上げた記事以降、音楽ジャンルの名称とみなされるようになる。第二に、1980年からヘヴィメタルを現地イギリスの音楽紙や音楽雑誌に倣って幅広く適用し、ハードロック史をヘヴィメタル史へと塗り替える記事が現れる。これを先導したのが『BURRN!』編集顧問を後に務める伊藤政則である。しかし、歴史観の修正は足並みを揃えては行われず、ヘヴィメタル観は特にハードロックとの関係という点で不明確になっていく。第三に、1982年にハードロックをヘヴィメタルのルーツとするジャンル観が出現し優位となる。伊藤政則はそこで、ヘヴィメタルはハードロックの1980年以降の呼び名であると主張し、自説の正当性を維持しようと試みた。

こうした変遷は、音楽雑誌がレコード会社のためにミュージシャンの宣伝を行う一方で、読者やファンからの信頼を維持するために、編集者とライターたちが互いに矛盾するヘヴィメタル本質観を提供してきたこと、そして『ミュージック・ライフ』のロックのメインストリーム化を歓迎し、またミュージシャンのセックスやドラッグへの耽溺を伏せる編集方針と、1970年代半ばまでに構築されたハードロックと周辺ジャンルの本質観とが、本場イギリスの音楽紙や音楽雑誌のヘヴィメタル本質観をそのまま日本へ導入することを困難にさせていたことに起因していたといえる。

結論として本研究は、日本においてヘヴィメタルがその受容初期から柔軟な枠組みであったこと、そして現地のジャンル観とは異なる独自のヘヴィメタル観を形成してきたことを主張する。

 

■松本迪大(立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程前期課程)

現代における選曲実践の分析:「語られる選曲」とミュージッキング再考

 

昨今、音楽サブスクリプションサービスの普及によって聴取可能な音楽の選択肢が拡大しており、結果的に音楽リスナー(聴者)にとって聴取の前段階における選曲の重要性が高まっている。しかし音楽聴取に関する先行研究の多くは、増えすぎた選択肢を縮減させる方法や、現代の音楽聴取環境によって可能になった即時的な聴取の可能性にのみ目を向けてしまっているように考えられる。そこで本論文は、自ら聴く(べき)曲を探す必要が生じる中で、聴者はいかにそれを選ぶのかということを問いとして掲げ、選曲という行為が特に現代において一つの注目すべき音楽実践となりえることを示す。

そのために本論はまず第1章で、現在に至るまでの音楽聴取の歴史を選曲という観点から振り返った。続く第2章では、現代において聴者が行う選曲に期待される機能を、「紹介」「理解」など5つの理念型として挙げ、選曲の提示に「厚み」を持たせるようなそれらの機能の共通点から、「語られる選曲」のあり方があることを示した。さらに第3章、第4章では、文字媒体と音声媒体での選曲実践に着目し、それぞれにおいて「語られる選曲」が行われていることを検証した。

さらに第5章では、実際にポッドキャストを用いて「語られる選曲」を行う聴者にインタビューを行い、選曲に対し込める「語り」やその工夫、あるいは選者自身の音楽遍歴などから、自身の選曲を特に音声の形で「語る」ことの意義や、このような選曲実践を行う聴者層の特徴や動機、他者志向性などの存在を示した。その結果、「語られる選曲」が、選者やそれを受け取る他の聴者にとって単に楽曲を聴かせること以上の「厚み」を持たせ、聴者の音楽体験に意味づけをもたらしていることが明らかになった。

最後に、以上の議論を通じていえるのは、自身の選曲を「語る」音楽リスナーは、自身の音楽体験やその脈絡の中で現在行われる選曲を出来事として捉え、それを「語る」ことで意味づけを行おうとしているという点だ。そしてその「語り」は記録され、「選ぶ(選ばれる)−聴く(聴かれる)」という二つの行為の時間差=「居合わせなさ」を生み出す。またそこでは、聴者それぞれが自身の好みなどの音楽聴取のあり方について「語る」ことを試み、自身の選曲にかけがえのなさをもたらし、聴かれる音楽の遊離した文脈を今一度自身に引き付けた形で繋ぎ直すという、「遅い聴取」の可能性が生まれうる。

 

 

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