The Japanese Association for the Study of Popular Music

日本ポピュラー音楽学会 卒論修論発表会2024

日本ポピュラー音楽学会 卒論修論発表会2024
 
日時 2024年3月2日(土)
会場 ZOOM
*ZOOMアドレスは会員宛にメールニュースでお送りしています。非会員でも参加可能ですが、非会員で参加を希望する方は、知り合いの会員にアドレスを聞いてご参加ください。
 
プログラム
*発表ごとの要旨は下に記載していますので、スクロールしてご覧ください。
 
09:30-09:35 会長挨拶
 
部会A(午前)司会・記録:福永健一
09:35-10:00 米田英智(社会構想大学院大学 実務教育研究科)
日本のレコード会社の制作担当者に必要とされる知識と能力 −A&Rが持つ暗黙知の形式知化−
10:00-10:25 金子萌衣(大阪市立大学文学部文化構想学科)
グループアイドルとCGPからみる歌唱における自己―歌詞の「私」や「僕」の解釈の揺らぎをめぐる考察―
10:25-10:50 岸本寿怜(大阪大学文学部芸術学専攻(研究生))
1990年代SMAPの音楽史〜音楽雑誌における語りと楽曲分析〜
10:50-11:15 佐藤颯(静岡文化芸術大学文化政策学部芸術文化学科)
50年代における生演奏空間としての「ジャズ喫茶」についての考察—「国立国会図書館デジタルコレクション」資料をもとに—
11:15-11:40 北島拓(大阪大学大学院文学研究科)
地域住民によるポピュラー音楽ライブを通じた近代化産業遺産の活用―名村造船所大阪工場跡地を事例に―
11:40-12:05 矢野友史郎(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科)
ラップ・フランセにおける空間表象から見る、都市空間の領域の再構築 ―Sofiane を対象としてー
 
部会B(午後1)司会:永井純一・南田勝也、記録:高岡智子
13:00-13:25 菊池虎太郎(大阪大学大学院人文学研究科)
〈邦楽ロック〉の形成と受容 ─1985年以降のメディア編成とシーンの相関に注目して─
13:25-13:50 新山大河(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
クリエイティブ労働による職業生活の形成と継続に関する社会学的研究──バンドマンへの生活史調査を通じて
13:50-14:15 土屋璃奈(武蔵大学社会学部)
モッシュダイブとライブキッズ ──ロック音楽のライブにおける聴衆の身体実践の文化──
14:15-14:40 石川愛(東京大学大学院 総合文化研究科)
ポピュラー音楽の声における演劇的側面 ——はっぴいえんどの「風街」イメージと「歌声の主体」の関係
14:40-15:05 和田理恵(東京大学大学院)
歌謡曲に見る現代日本の祈りの形態 ―歌詞の計量テキスト分析を用いてー
15:05-15:30 藤井南々帆(関西大学社会学部メディア専攻)
星野源の歌詞に映る現代日本の人生観
 
部会C(午後2)司会・記録:加藤賢
15:50-16:15 飯山ももこ(放送大学大学院 文化科学研究科 修士課程)
戦後日本において〈共に歌う〉ことと〈みんな〉という思想 ――〈共に歌う〉ことの身体性に着目して――
16:15-16:40 高橋龍平(東京都立大学大学院 人文科学研究科)
音楽体験の理論化における視覚要素の重要性――〈音響的身体〉の検討を通して
16:40-17:05 岩間日菜多(武蔵大学社会学部)
神の音を信仰する
17:05-17:30 北山倫(東京都立大学人文社会学部人文学科表象文化論教室)
VOCALOIDが拡張した〈声〉のあり方について——メディア分析を通じて
17:30-17:55 夏目雅矢(九州大学芸術工学部芸術工学科音響設計コース)
オープンフィールドゲームを中心としたゲーム音楽におけるモジュールのつながりの種類
 
17:55-18:00 閉会の辞
 
 
 
発表要旨
 
部会A(午前)司会・記録:福永健一
 
09:35-10:00 米田英智(社会構想大学院大学 実務教育研究科)
日本のレコード会社の制作担当者に必要とされる知識と能力 −A&Rが持つ暗黙知の形式知化−
 
実務教育学修士(専門職)論文要旨
1. 論文タイトル
日本のレコード会社の制作担当者に必要とされる知識と能力
−A&Rが持つ暗黙知の形式知化−
2. 研究背景と目的
 アーティストが音楽を制作し、レコード会社を通じて作品としてリスナーのもとに届ける際、プランニングから制作まで全ての責任を負い、司令塔的立場となるのが「A&R(アーティスト・アンド・レパートリーの略)」である。音楽の聴かれ方がCDから配信に変わっても、A&Rは今も音楽業界の中で重要な存在である。しかし、その知識は個人の中に留められ、徒弟制によって口伝されるのみである。本研究では、その暗黙知を形式知化することでA&Rに必要とされる知識と能力を明らかにし、それを会得し実践する方法や組織のあり方を考察する。
3. 研究手法
 A&Rが持つ知識を「思考アプローチ」「データ、手法、作業」「コツ、わざ、テクニック」の3つに分けて示した。その暗黙知を形式知化するための手法として、フレーム&ワークモジュールを用いた。現役A&R4〜5名のグループを2組作り、各モジュールに配置された「思考アプローチ」と「コツ、わざ、テクニック」に関するテーマでディスカッションを行い、言語化した。
 また、A&Rと業務を行う関係にある、アーティスト、音楽プロデューサー、映像ディレクター、アートディレクターら関係者13名に半構造化インタビューを行った。
4. 研究結果
 フレーム&ワークモジュール・セッションを通じて言語化された知識を分析し、A&Rにとって重要な能力は、「考える」「音楽へのこだわり」「担当アーティストへの愛」「コミュニケーション」であるとした。
 関係者へのインタビュー調査結果では、インタビュイー13名全員がA&Rは今後も必要な存在であるとした。その理由は、アーティストが単独で活動し続けるのには限界があり、A&Rがアーティストの伴走者であるべきとされた。また、音楽や映像、グラフィック・デザインに関する専門知識はクリエイターが担当するのでA&Rには必要無いとされた。しかし同時に、ある程度の知識を持っていないとアーティストやクリエイターとの信頼関係構築は難しいとされた。その他の回答をKJ法で分析した結果、関係者がA&Rに求める能力は、「担当アーティスト、音楽への愛」「仲介調整力」「考える力」「実行する力」であるとした。
5. 結論
 調査結果から、A&Rに求められる知識と能力は、「考える力」「アーティスト、音楽への愛」「コミュニケーション力」である、と結論づけた。さらに、実践コミュニティ理論を用いて、組織内での知識の再埋め込み化、知識創造サイクルについて検討した。
6. 応用可能性と今後の課題
 これまで形式知化されてこなかったA&Rに必要とされる知識や能力を明らかにしたことにより、組織内の人員配置の規準を提示することができた。また、人材育成の観点でも全てのA&Rの質の向上に繋がる示唆を与えられた。
 一方、本研究は日本のA&Rに研究範囲を絞ったため、欧米・韓国式の分業型A&Rについてはじゅうぶんに調査を行っていない。今後、欧米式分業型A&Rの特徴や優位性を研究、調査し、日本のレコード会社や音楽業界に生かすことができるか検討したい。
 
 
10:00-10:25 金子萌衣(大阪市立大学文学部文化構想学科)
グループアイドルとCGPからみる歌唱における自己―歌詞の「私」や「僕」の解釈の揺らぎをめぐる考察―
 
 本稿では、グループアイドルにおけるCGP(cross-gendered performance:ジェンダー交差歌唱)を分析し、歌唱における自己について考察する。
 CGPについては、中河伸俊が「転身歌唱の近代―クロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」でまとめている。中河によると、CGPは「歌のシナリオである歌詞のジェンダーと歌い手のジェンダーとが一致していない歌唱」 (中河:1999,239)と定義される。中河は、社会学者ゴフマンの理論を援用しつつ、パフォーマンスの主体とされる””その人””の自己は、「個人(person)」、「演者(performer)」、「登場人物(あるいは役柄character)」の少なくとも三層に重層化されると説明する(中河:1999,239-240)。つまり、「演者」と「歌詞の登場人物」のジェンダーが一致しない歌唱がCGPということになる。今日のグループアイドルによるパフォーマンスにもCGPを確認することができるが、中河が論じるCGPとの違いが確認できる。
 この違いを整理するため、第1章にて、グループアイドルにおけるCGPと、中河が分析するCGPの比較検討を行う。対象としている歌唱の形式や、生じている交差の水準、オーディエンスへの効果に焦点を当て、事例を挙げつつ整理する。結果、グループアイドルのCGPは、ジェンダーの交差に加えて単複の交差も生じていることや、オーディエンスによる解釈が揺らぎやすいことを見出すことができる。
 第2章では、オーディエンスによる解釈が揺らぎやすい要因について、社会的背景から検討する。日本語のユニセックス化や性の多様性の理解をはじめとする女/男の二分法の崩れ、演者と登場人物の分離という2点の要因が確認できる。
 第3章では、歌唱行為について理論的に検討を試みる。演劇と異なり、グループアイドルの歌唱では、演者と登場人物の単複の不一致が違和感なく受容されているのはなぜだろうか。1点目として、身体の不可視と「声」による意味生成という歌唱の特性がある。この特性をふまえると、中河が提示する自己の三層理論は修正が可能であり、「声」の層を加えた自己の四層理論を提示することができる。2点目として、オーディエンスによる解釈の揺らぎやすさがある。発話行為は行為の側面と文の側面を持っており、それぞれの側面が相互に影響しながら、オーディエンスによって歌唱という発話行為の「話し手」や「聞き手」が様々に解釈される。したがって、グループアイドルの歌唱において、演者と登場人物の単複の不一致が違和感なく受容されているのは、歌詞の「私」や「僕」がグループアイドルの「身体」ではなく「声」と結びついており、その「声」がオーディエンスによって様々に結びつけられて聴かれているからであるといえる。
 
 
10:25-10:50 岸本寿怜(大阪大学文学部芸術学専攻(研究生))
1990年代SMAPの音楽史〜音楽雑誌における語りと楽曲分析〜
 
本研究の目的は、男性アイドルグループSMAPが1990年代に発表した楽曲を分析し、彼らがいかに現在のJ-POPに影響を及ぼしているのかを考察することである。
近年、乃木坂46、冨田ラボ、花澤香菜、NewJeansといったアーティストをめぐる音楽批評において、「SMAPぽい」や「SMAP風」といった言葉が用いられる場合がある。すでに解散したSMAPがしばしば引き合いに出されるというこの事実は、長きにわたり彼らの楽曲が人々の意識に留まっていることの証左であると思われる。そこで本発表では、『ミュージック・マガジン』等の音楽雑誌における音楽評論家、ミュージシャンを取り巻く言説と、SMAPの楽曲の構造を分析することを通して、彼らの楽曲のアレンジがいかに変化を遂げてきたのかを考察し、日本のポピュラー音楽史におけるSMAPの立ち位置を検討する。
 [香月,2014][上岡,2021]等の先行研究が示すように、アイドルはさまざまな活動様式を持っているゆえに、その語義は変動しやすい性格を持っている。ただし多くのアイドルに共通しているのは、外見の美しさを魅力の一つとして売り出していることであろう。SMAPもその例に漏れず、コンサートでのダンスを含むパフォーマンスやバラエティ番組、ドラマでの活躍、写真集など活動は多岐に渡り、音楽活動は彼らのマルチな活動の一側面であったに過ぎない。しかしながら、視覚的魅力が強調されがちなアイドルのなかでも、SMAPの音楽作品が批評空間において一定の説得力を持ち得ているということは特異な現象であり、一考に値すると発表者は考える。
1990年代のJ-POPはブラック・ミュージックを志向する編曲が国内で流行した時期であり、特に1994〜1998年のSMAP楽曲には、マイケル・ブレッカーやオマー・ハキムなどの一線級のミュージシャンが多く参加していることにも注目すべきであろう。当時の音楽誌を見てみると、「フュージョン」と称される音楽ジャンル周辺のミュージシャンが関与したSMAPの作品群は、概ね好意的に評価されている。だがこれらの記事がSMAPのメンバーによる歌唱に言及することは少なく、ほとんどがバック・ミュージシャンに対する評価に文量を割いている。つまり音楽評論家たちは、SMAPのアイドル的表象を意識的に排除し、SMAPの楽曲を純粋に音楽面のみで評価することを試みていたのである。また「アイドルは他のジャンルの音楽 (たとえばクラシックやジャズやロック)に比べて低級な音楽」[稲増,1989,102]という観念が残っていた90年代において、SMAPのプロデューサー陣の語りからは、「本場の」ミュージシャンを起用することを通して、アイドルの楽曲が周縁化される構図を克服しようとしていたことも興味深い。
そのため本発表では、SMAPの楽曲のアレンジがどのように変遷したかを確認し、アイドルの楽曲を取り巻く言説がいかに作り上げられたかに注目することで、日本のポピュラー音楽史においてSMAPの存在がアイドルの楽曲評価の分岐点となったことを示したい。
 
 
10:50-11:15 佐藤颯(静岡文化芸術大学文化政策学部芸術文化学科)
50年代における生演奏空間としての「ジャズ喫茶」についての考察—「国立国会図書館デジタルコレクション」資料をもとに—
 
 ジャズ喫茶は一般的にジャズのレコード鑑賞を目的とした喫茶店で、60~70年代に人気の山場を迎えた。ジャズ喫茶の人気は衰えたが、現在においてもジャズ喫茶に関する書籍は続々と出版されている。その多くはジャズ喫茶の店主による回顧録や、店のオーディオ・システムに関する詳細な記述などである。研究についても、比較的近年に細川周平(2007)やマイク・モラスキー(2005)(2010)などが現れた。両者の研究について共通しているのは「ジャズ喫茶=ジャズ・レコード観賞店」という認識であり、レコードという複製技術を媒にした鑑賞空間について論じている。
一般的にジャズ喫茶の「全盛期」とされている60~70年代に関する回顧録はかなり多い一方で、50年代のジャズ喫茶に関する記述はほとんどない。「ジャズ喫茶」という呼称が一般化するのは53年頃であり、一般的にジャズ喫茶は洋楽ポピュラー全般の生演奏を提供する喫茶店を指した。生演奏空間としてのジャズ喫茶については、「ライブハウス」の先駆けとして宮入(2008)や増淵(2010)などでその存在が言及されてきたが、まとまった研究はこれまでなかった。
 本論文では、レコード鑑賞空間としてのジャズ喫茶を〈ジャズ・レコード喫茶〉、生演奏空間としてのジャズ喫茶を〈ジャズ喫茶〉と両者を分類し、50年代から60年代にかけて存在した洋楽ポピュラー音楽全般の生演奏空間としての〈ジャズ喫茶〉について論じた。当時、ジャズの主な演奏の場はキャバレーやダンスホール、進駐軍クラブなどだったが、ジャズの生演奏空間としての〈ジャズ喫茶〉はどのように位置づけられるのか。〈ジャズ喫茶〉はどのように経営され、どのようなジャンルの音楽が流れていたのかについて論じた。
 主な参考資料としては細川、モラスキーによる先行研究の他に、多くのジャズ喫茶の回顧録に目を通した。50年代のジャズ喫茶に関する記述は少ないが、「国立国会図書館デジタルコレクション」上に存在する「ジャズ喫茶」という記述の含まれた図書・雑誌をひろく調べることによって収集した。また東谷(2005)青木(2013)による、進駐軍クラブにおける音楽シーンに関する研究も参照した。
 50年代の生演奏空間としての〈ジャズ喫茶〉では、ジャンルとしてのジャズだけでなく、タンゴ、ハワイアン、ウエスタンやロカビリーなどの様々な洋楽ポピュラー音楽が演奏された。当初は進駐軍クラブで演奏していたミュージシャンが〈ジャズ喫茶〉で演奏活動をおこなっていたが、50年代後半に芸能プロダクションが確立すると、ジャズ喫茶は芸能界のシステムに組み込まれていった。60年代以降は〈ジャズ喫茶〉は「ロカビリー喫茶」と呼ばれ、芸能プロダクションに所属したロカビリー歌手の演奏の場へと移り変わっていた。
 これまでジャズ喫茶に関する研究は、スウィングやビバップなどのジャンルとしての「ジャズ」に偏る傾向にあったが、本論文は、広く洋楽ポピュラー音楽の実践の場としての〈ジャズ喫茶〉について論じた。今後のジャズ喫茶研究において必要なのは、「ジャズ」というジャンルを越えた「ジャズ喫茶史」を描き出すことだろう。
 
 
11:15-11:40 北島拓(大阪大学大学院文学研究科)
地域住民によるポピュラー音楽ライブを通じた近代化産業遺産の活用―名村造船所大阪工場跡地を事例に―
 
 本研究は、産業遺産において実施された音楽イベントを対象に、ヘリテージとノスタルジアの視点から、場所の歴史と地域住民の記憶を結び付ける音楽実践の媒介的な側面について論じることを目的とする。
 音楽と場所や空間に関わる議論は、これまでも盛んに行われてきた。例えば、ライブハウスやロックフェスに関する研究では、特定の音楽空間における制度化や規範の構築が詳らかにされている[宮入恭平(2008)『ライブハウス文化論』 、永井純一(2016)『ロックフェスの社会学』]。また、音楽と記憶の関係性については、ノスタルジアとの関係から、音楽実践を介して能動的に過去と関与する事例が示されており[小泉恭子(2013)『メモリースケープ』]、音楽と特定の場所における記憶を関連させて論じる上で大きな示唆を得た。
 本研究では、音楽と場所の歴史と記憶の重なりを捉えるため、産業遺産という特異な空間において、その場所の歴史を反映した音楽実践に着目した。具体的には、大阪市住之江区北加賀屋に所在する名村造船所大阪工場跡地において、2009年から2011年にかけて毎年開催された「すみのえミュージック・フェスタ」(以下SMF)を事例として取り上げた。
 北加賀屋地区は、大正中期から昭和期にかけて造船業により発展した地域であったが、石油危機以降の産業の衰退により脱工業化の問題に直面すると、2000年代中頃から一転して、アートの街として知名度を獲得するようになった。地域を代表する造船会社であった名村造船所は、1970年代には九州へ移転し、造船所跡地は2005年からアート複合スペース「クリエイティブセンター大阪」として活用されている。この名村造船所跡地は、2007年に経済産業省の「近代化産業遺産群33」に選出されたが、これを契機に官民連携で実施された企画が、SMFという音楽ライブのイベントであった。そのため、SMFは造船所跡地という旧産業施設の遺産化に伴って実施されたものであり、音楽実践と特定の場所の歴史との関係性を探るにあたって適切な事例と考えられる。
 本研究では、SMFの開催経緯と企画趣旨を調査するために、関係資料の調査に加えて、関係者へのインタビューや区役所への書面による質問も行った。その結果、地域における産業遺産の活用実践の一つとして計画されたSMFは、「1970年代の音楽シーンの再現」というコンセプトを掲げることで、参加者の主な対象として団塊の世代の地域住民を想定しつつ、北加賀屋の繁栄の歴史も想起させる形で企画されたことが分かった。
 そこで、ヘリテージやノスタルジアに関するこれまでの議論を参考にしながら、活用重視の産業遺産を用いたSMFという事例の分析を通して、産業遺産の活用という現代的な課題の中で、場所の独自性を活かす音楽実践が、特定年代の楽曲を媒介に、地域の歴史と特定の世代の人々の記憶を結び付ける働きを持つことを明らかにする。その上で、既存のポピュラー音楽研究におけるヘリテージの議論を簡単に確認し、今後の課題への道筋を示す。
 
 
11:40-12:05 矢野友史郎(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科)
ラップ・フランセにおける空間表象から見る、都市空間の領域の再構築 ―Sofiane を対象としてー
 
アメリカで生まれ、1980年代初頭にフランスに上陸したヒップホップは、当初は郊外(=バンリュー)だけでなく、パリのあらゆる空間で実践・表象されていた。しかし、1980年代末になると、テレビ番組をはじめとするマスメディアは、出現しつつあった「郊外の問題」をラップを用いて説明するようになり、「ラップ=郊外の音楽」というイメージが付与された。しかし、フランスでラップが若者の間で流行し、ラップ・フランセRap françaisとして一大ジャンルの地位を確立すると、ラップは多様なテーマを表現するようになる。では、そうした中現代においてラップは空間との関係において何を描いているのだろうか。 本研究では、研究者らによって維持されてきた「ラップ=郊外」という固定的・二項対立的なイメージについても疑問を投げかけつつ、ラップ音楽が今日どのように空間を表象しているのか、そしてその変容は何を意味するのかを考察する。
まず、初期のラップ・フランセの歴史を空間的な視点から振り返ることで、このジャンルが対象とする実践・表象における空間の多層性と多様性を明らかにする。そして、1990年代にラップ音楽が郊外に押し出されていく過程を具体的な事例を挙げて説明する。 このようにラップ・フランセと空間の関係が本研究の鍵であることから、ラップ音楽と空間に関する先行研究を列挙した上で、両者の関係が密接でありかつ相互的で複数性あるものであることを提示している。その上で、ラップ・フランセ研究における分析対象としてのビデオクリップを利用する意義、そして空間概念について地理学の観点から述べる。最後に、パリ北郊セーヌ=サン=ドニ県出身のラッパー・Sofianeのビデオクリップを用いて、ラップ・フランセがどのように空間や場所と結びついているのかを明らかにする。
分析の結果、Sofianeは生まれ故郷の集合住宅(=シテ)だけでなく、他のシテからパリ、フランス郊外、アフリカ大陸まで様々な空間を対象にラップしていることがわかる。さらに、ビデオクリップを用いることで空間を独自の領域として再展開し、歴史的に構築された空間(=空間の表象)やイメージを自由に越境・横断していることが明らかとなった。これは、「ラップ=郊外」という従来のイメージを覆し、ラッパーたちが様々な領域で自らのビデオクリップを構成するとともに、新たに構築された領域を区切られたものでなくオープンかつ関連性のあるものとして使用していることを示している。また、自由な越境はフランス第二帝政期以降持続する「都市(パリ)=郊外(バンリュー)」というもうひとつの二元論的空間の脱構築を、ラッパーたちはラップを通して描いていると考えることもできる。この研究を通して、都市空間や様々なスケールによって分断された空間を表象するものとしての音楽研究の重要性を再定義することができたと考えている。
 
 
部会B(午後1)司会:永井純一・南田勝也、記録:高岡智子
 
13:00-13:25 菊池虎太郎(大阪大学大学院人文学研究科)
〈邦楽ロック〉の形成と受容 ─1985年以降のメディア編成とシーンの相関に注目して─
 
本論文は、1985年代以降の日本におけるロック音楽シーンと音楽雑誌をはじめとするメディアとの相関に注目した分析を試み、〈邦楽ロック〉の形成と受容の様相を明らかにすることを目的とするものである。
本論が主題として扱う〈邦楽ロック〉は、国内で活動するロックバンドを示す語としてごく一般的に用いられるものであるが、〈邦楽ロック〉の概念を学術的に定義した先行研究は存在しない。そこで本論では1990年代後半の日本で成立したロック音楽の新形態を〈邦楽ロック〉と呼称し、1960年代の草創期から1990年代前半のバンドブーム期までの「日本のロック」とは区別して考え、主な研究対象として設定、分析を試みる中で1990年代の日本のポピュラー音楽における総合的な構造転換の一端を明らかにすることを試みた。
その構造転換とは、メインストリームからサブカルチャーまで、あらゆる日本のポピュラー音楽の地表において洋楽を理想化するように進展してきたイデオロギーが1990年代を通じて再編成され、欧米の影響を相対的に低下させた自律的なポピュラー音楽文化が形成、現在に至るまでその表現文化の枠組みが保持されているという不可逆的な構造の転換である。
そしてそれは、洋楽へと限りなく接近したJ-POPの登場によって、かえって洋楽の影響力自体が凋落したという決定的な矛盾として表出する。これまでメインストリームのロック音楽を中心的に扱っていた『ロッキング・オン・ジャパン』(『ROJ』)は、バンドブームを経たロック的な方法論の拡散とそれさえも内包したJ-POPの全面化という事態に際し、それらへのカウンター的な要素を含んだムーヴメントであった「渋谷系」に注目し、「渋谷系」さえもロッキング・オン的な語りの方法に取り込んだことで、「J-POPに対するオルタナティブ」という新たな回路を駆動させ、1990年代を代表する音楽雑誌として成長することができた。
そしてその後、「下北系ギターロック」に代表されるような「渋谷系」以後の様々な実践と同調する中で、独自のカテゴリとしての〈邦楽ロック〉の形成を試みた。渋谷系以後の感覚を有するミュージシャンは、各地のインディーズ・レーベルによる編成を経て1990年代後半に〈97世代〉と呼ばれるような同世代のミュージシャン群として結実し、それは『ROJ』を中心とした〈邦楽ロック〉というカテゴリにおける一つの指標として参照される存在となった。
しかし重要な点は、洋楽至上主義的なイデオロギーから転換した1990年代後半以降、シーンの在り方を表立って規定するような単一のイデオロギーは消失し、かつての『宝島』のように、ロック・ジャーナリズムが読者に強いキュレーションを与えることが不可能になったことである。
そのような状況下において、『ROJ』は自社開催のフェスにロック・ジャーナリズムと相関する機能を付与し運営することで、2000年代前半には「ロキノン系」と呼ばれるようなシーンを維持し続けた。そして、それは周囲の多種多様なインターネット上の言説や地域的な実践と影響し合いながら進行する。このような側面において、〈邦楽ロック〉は複数のメディアによる影響を相互的に与えつつ進展する間メディア性を有する概念である。
 
 
13:25-13:50 新山大河(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
クリエイティブ労働による職業生活の形成と継続に関する社会学的研究──バンドマンへの生活史調査を通じて
 
 本研究はクリエイティブ労働による職業生活の形成と継続過程を、ロック音楽分野で音楽活動を行うミュージシャン(以下、バンドマン)を事例として、社会学的に検討するものである。
 現代社会では、専門的な知識や技能に基づいた、創造的な活動に支えられるクリエイティブ産業が、社会経済的において大きな位置を占めるようになっている。芸術家や建築家などの職業集団(以下、クリエイター)は、クリエイティブ産業を支える存在として注目され、社会的・学術的に高い関心を向けられてきた。こうしたクリエイティブ産業とクリエイターについては、さまざまな可能性が見出されている一方で、産業としての制度化の不十分さや、就労形態の不安定性が問題視されている。
 先行研究ではクリエイターの労働をめぐる諸問題が論じられてきたものの、社会構造や労働規範のもとで搾取される客体や、芸術的成功と経済的成功の二項対立のもとで、戦略的に卓越化競争を行う存在として捉えられ、実際に職業生活を営む労働者としてのクリエイターの姿は見落とされてきた。以上の問題を踏まえ本研究はバンドマンを事例として、クリエイターが諸問題に直面しつつも、クリエイティブ労働を生業とする職業生活を実際に形成し、継続していくためにいかなる実践を行なっているのかを検討した。本研究では、アマチュアからプロまで、広くバンドマンへ生活史調査を行うことで得られた調査データを使用した。
 本研究の目的である、クリエイティブ労働による職業生活を形成・継続するための実践の特徴を、バンドマンを事例として明らかにするために、本研究では以下の4つの研究課題(Sub Question: SQ)を設定した。第一に、趣味に始まる音楽活動の労働への移行(SQ1)と、音楽活動がプロ化する際に生じる、生活環境の変化(SQ2)の観点から、職業生活の形成過程について検討した。第二に、芸術的価値と経済的価値のジレンマを解消・緩和し、表現者としてのアイデンティティを維持するための実践(SQ3)と、プロ契約の満了とセカンドキャリアの形成(SQ4)の観点から、職業生活の継続過程について検討した。
 「クリエイティブ労働による職業生活の形成・継続過程」という問いに対し、バンドマンはめまぐるしく変化し続ける生活環境への適応と、乏しい資源の絶え間ない調整によって不安定性に対処し、クリエイティブ労働による職業生活を形成することがわかった。またさまざまな仕事をかけ持つなかで、音楽活動の価値を状況に即して都度定義することによって、職業生活を継続することがわかった。
 本研究で提示した職業生活の不安定性や、商業的要求と文化的意義の葛藤といった問題に関する知見は、専門的な知識や技能に基づいた多くの創造的活動に関わるため、クリエイティブ労働に携わる人々を広く射程に捉えるものであるといえる。本研究の意義はクリエイティブ労働を生業として現実に職業生活を営み続けるクリエイター、いわば「生活者としてのクリエイター」像を提示したことにある。
 
 
13:50-14:15 土屋璃奈(武蔵大学社会学部)
モッシュダイブとライブキッズ ──ロック音楽のライブにおける聴衆の身体実践の文化──
 
本研究は、ロック音楽のスタンディングライブに特徴的な、身体を使った聴衆のノリ方の文化について検討した。モッシュやダイブ、サークルなどと呼ばれる独特のノリ方を実践する聴衆はライブキッズとも呼ばれる。1990年代以降、世代の変化や音響テクノロジーの進展に伴い、ロックは身体性の要素が強まり「スポーツ化」した。スポーティな聴取手段であるモッシュダイブを通して、ライブキッズは何を得ているのか。また、暗黙の了解として存在するこの文化は、どのように行われ、いかなる規範が共有されているのか。実態を明らかにするために、野外ロックフェスでの参与観察とライブキッズへのインタビュー調査でデータを収集し分析・考察を行った。その際、小川博司によるノリの階層構造を分析枠組みとし、同時にモッシュダイブにおけるノリ構造として再構築を試みた。
モッシュやダイブ、サークルの実践では必ず主体と他者との関わりが生じ、各ムーブはオーディエンス同士の協力によって成立している。主体は身体を媒介に他者との強烈な一体感を感じることを通して、音楽とも一体になる感覚を得、音楽のノリの快楽を享受する。
モッシュダイブは危険な行為であり、自己責任という暗黙の了解の元行われている。自己責任は、他者の存在が常に意識されるフロアにおいては連帯責任として理解される。その中でライブキッズは、相互にトラブルを回避し、自己のみならず他者の安全と快楽をも尊重する「思いやり」規範のもと振る舞う。イベント主催者は、聴衆の思いやり規範に信頼を置き、自由な遊び場として場を提供する。またムーブの実践や規範の学習には、先輩ライブキッズの存在が不可欠である。
ライブのフロアにおいて「キッズ」に戻ったオーディエンスは、衝動的にモッシュに飛び込み、身体で「好き」を表現する。能動的にアクションを起こした聴衆とバンドとの相互行為によって、ライブにおけるグルーヴ感が高められる。そしてライブキッズは音楽によって繋がれた聴衆同士の紐帯において、日常よりも積極的なコミュニケーションを行い、他者と音楽の快楽を共有する。
結果として、モッシュダイブ文化は実践、学習、ノリの快楽といったあらゆる側面において「他者」の存在が重要であり、それが規範にも反映されていることがわかった。モッシュダイブとは、ライブキッズが音楽への「好き」という感情を表現する手段でありながら、ノリの快楽を生み出す手段でもある。そしてライブキッズは、同じ「好き」をもつ他者と精神的にも肉体的にもつながり、音楽の快楽を共有する。近年、感染症の影響で変容しつつあるロック音楽ライブのフロアにおいて、モッシュダイブ文化はそのあり方が見つめ直されているが、本研究で示したライブキッズの音楽愛と思いやりが信頼され、この文化が受け継がれて行くことを期待する。
 
 
14:15-14:40 石川愛(東京大学大学院 総合文化研究科)
ポピュラー音楽の声における演劇的側面 ——はっぴいえんどの「風街」イメージと「歌声の主体」の関係
 
 本研究は、はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』を中心的な分析対象として、観客による知覚の分析を重視するドイツ語圏の演劇学を応用しながら、はっぴいえんどの歌声を介して立ちあらわれる「風街」の聴覚的イメージについて考察するものである。
 「風街」という語は、はっぴいえんどの楽曲全体に通底するコンセプトと考えられ、とりわけ「風」は、歌詞テクストの分析や作詞者である松本隆の発言などに依拠して「街をめぐる過去の記憶をノスタルジックに喚起する媒介」と解釈されてきた。しかし、文学研究的アプローチや音楽学的アプローチ、さらには当時の社会的・政治的状況を考慮する社会学的アプローチによる先行研究において、はっぴいえんどの歌声という要素およびそれによって聴覚的に喚起される「風街」のイメージは十分に検討されてこなかった。そこで本研究では、はっぴいえんどの音声パフォーマンスが聴き手に与える効果を論じるために、観客による上演の知覚および観客と演者の間の相互作用の分析に力点を置くドイツ語圏の演劇学の理論を応用し、ポピュラー音楽の声およびその聴取を美学的に論じる可能性を探った。
 論文の前半にあたる第1章から第4章までの第1部では、はっぴいえんどの『風街ろまん』を聴くことを通じていかなる空間が聴き手に経験されるのかを論じ、歌詞を通じて提示されるのとはときに相反しさえする「風街」のイメージを新たに提示した。発表では、第2章から第4章における歌声の分析に基づき、はっぴいえんどの声から喚起される「風」が、複数の場所の重なり合いによって生じる混沌を表し、現存の街の風景を破壊することで過去の記憶を喚起しようとするモチーフとして解釈できることを示す予定である。
 論文第1部での分析を通じて、はっぴいえんどの歌声が、歌詞テクストの次元では後景に退いている「ぼく」という存在を独特の仕方であらわしていることが明らかになってきた。そこで第5章から第8章までの第2部では、「風街」について歌い語る「ぼく」が主体化されていくプロセス、および「ぼく」による歌・語りを通じて聴き手のもとに生じる「風街」について論じた。
 第7章では、中河伸俊「転身歌唱の近代」(1999)や増田聡『聴衆をつくる』(2006)などで議論されてきたポピュラー音楽歌唱の発話主体について、第5章・第6章で行ったはっぴいえんどの歌声の分析に基づきながら、演劇学の理論を参照して考察した。発表では、ポピュラー音楽の歌唱において、歌声を通じた行為の遂行と主体化のプロセスから逃れる声の特徴の双方を聴き手が知覚することではじめて浮かび上がる「聴覚的人物像」が見出せることを示す。そしてこれは、1970年前後の日本のポピュラー音楽状況におけるはっぴいえんどの独自性を歌声の観点から明らかにする一助となるように思われる。終章となる第8章では、歌声による語りを通じて生じる「風街」において、歌詞に描かれていたアイデンティティの葛藤が、「風街」に集う者たち——歌い手および聴き手——にとってもいっそう切実に突きつけられていくプロセスを解明した。この研究成果は、ポピュラー音楽の歌声がいかに聴き手に作用するのかを分析した一事例となるだろう。
 
 
14:40-15:05 和田理恵(東京大学大学院)
歌謡曲に見る現代日本の祈りの形態 ―歌詞の計量テキスト分析を用いてー
 
本論文は、現代日本における歌謡曲の歌詞の中にあらわれる「祈り」の形態について、計量テキスト分析の手法による量的調査と、歌詞の文脈を丁寧にみる質的調査の両面からあきらかにするものである。
 本論文での歌謡曲は、現代日本で大衆に広く親しまれることを目的に、西洋音楽の技法を取り入れて作詞、作曲され、メディアを通じて伝えられていく歌すべてに適用し、範囲を広くとっている。
対象としたのは、1990年から2022年の「祈」を含む歌謡曲11070曲である。データはインターネットの歌詞サイト「歌ネット」が持つ32万曲以上のデータから検出したものであり、2022年5月に取得した。大衆の受容の要素を織り込むため、オリコン上位、レコード大賞受賞、紅白出場、売り上げ上位など、流行歌の条件を満たすと考えられる曲のリストを作成し、この情報と歌のタイトル、歌手、作詞家、作曲家のいずれかのデータがマッチした3738曲のデータを最終的な分析に用いた。その他、比較のための「うたごえ運動」の歌243曲を書籍から、東日本大震災直後の応援ソング59曲を「歌ネット」からそれぞれデータを得、分析に用いた。
まず、10年ごとの大きな変化の流れをKH Coderを用いて分析した。次に、東日本大震災前後それぞれ2年間に発表された738曲、コロナ前後それぞれ2年間に発表された709曲の歌詞を対象に、「何」に「どのような」祈りを捧げているのかを調査し、明らかにした。 
調査にあたっては、データからコードを作成していくオープンコーディングの手法を取り入れた。「祈り」の前後にある文章を一つひとつ検討し、祈る主体、時期、場所、誰のために祈るか、何に祈るか、祈りの内容などをそのまま抜き出すところから作業を始め、マニュアルを作成し、コードを焦点化していった。 
 その結果、まず、3.11前後もコロナ前後においても多くのケースで、一人で夜に祈っていることがわかった。その大部分は星に祈っていたが、コロナ後は星に祈る割合が減少した。
3.11前後、コロナ前後すべてに共通して、祈る内容は、「幸せ」が最多で、次に多いのは「自分の願望」であった。この「自分の願望」の内容は、特定の人と「会いたい」あるいは特定の人と過ごしている楽しい時間が「止まってほしい」という願いが目立ったが、コロナ後は激減した。コロナ後に増えた願いは、自分や相手が「こわい思い」や「痛い思い」をしないこと、「生存」することについてであった。
歌ネットで当初取得した「祈」を含む楽曲11070曲中には、10回以上違う歌手によって発売された、時代を超えて歌い継がれているとも言える歌が17曲存在した。最も多く歌われていたのは「見上げてごらん夜の星を」で65回発売されていた。2位は「涙そうそう」の44回である。この2曲は星と祈りを結びつけている歌であり、歌謡曲における祈りを考える上で、とりわけ重要で、影響力の大きい歌であると言えるだろう。
 
 
15:05-15:30 藤井南々帆(関西大学社会学部メディア専攻)
星野源の歌詞に映る現代日本の人生観
 
星野源は、音楽、俳優、文筆など多様な分野で活躍し、多くの人を巻き込み一大ムーブメントを起こしてきた、今や日本のポップアイコンといえる。星野源の活動の一環である音楽において、彼は何を表現しているのだろうか。その歌詞の特徴を深掘りすることで、現代を生きる人が何を感じているのか、その心情を探ることができるだろう。
本研究におけるもっとも重要な問いは、「星野源の歌詞に映し出されている現代日本の心情は何か」ということである。これを明らかにすべく、次の二点について分析をしていく。一点目は、星野源の楽曲の歌詞における特徴語やモチーフは何かということである。全作品を通して特徴的な語句やモチーフを調査することにより、ファンをはじめとするリスナーがどのようなメッセージの歌詞に自分を投影しているのか知ることができる。二点目は、特徴語やテーマ、モチーフの推移はどのようになっているかということである。歌詞のメッセージが大きく変化している場合には作詞者自身の環境が変化するほかに、なにかしらの社会の変化があり、それが詩作に反映されていると考えられる。歌詞の変化から日本社会の意識の変化を推察していく。具体的な手続きとしては、見田宗介著『近代日本の心情の歴史』を参考にテーマやモチーフについて検討を進め、KHCoderを用いて歌詞を分析する。
その結果以下のことが明らかになった。第一に、星野源の歌詞においては重要語として「消える」「踊る」「繋ぐ」が挙げられ、心情としては「無常感」、テーマとしては「人生」が中心になっている。第二に、「僕ら」はいずれ消えゆく存在であるという無常感が歌われており、それとは対照的に、ずっと残るものとしての「日々」が歌われている。僕らはいずれ消えゆく未来が分からない不確かな存在であるが、僕らの意思とは関係なく過ぎてゆく時間、続いて行く日々によって「今、ここに生きている」ということは確かに感じられるという感覚である。第三に、その日々をどのように生きるのか、ということの答えが「踊る」と「繋ぐ」である。「踊る」という語句はJpopの歌詞全体として増加傾向にある。ダンスの授業の必修化やSNSの台頭によって「踊る」ことが身近になってきている。そして日々を「繋ぐ」ことで人生に意味を持たせるように生き、人と繋がろうとすることで「ひとり」である状態を抜け出し、いつかは消えてしまう自分の存在を確かにすることができるという人生観である。「生きることと踊ること」「繋がりをつくることで生きていくこと」が星野源の歌詞と現代日本の人々の心が交錯する場所である。
 
 
部会C(午後2)司会・記録:加藤賢
 
15:50-16:15 飯山ももこ(放送大学大学院 文化科学研究科 修士課程)
戦後日本において〈共に歌う〉ことと〈みんな〉という思想 ――〈共に歌う〉ことの身体性に着目して――
 
 本研究は、〈共に歌う〉という社会的行為がどのように表象されてきたのかを〈共に歌う〉際に伴う、ダンスなど身振りや手振りといった身体性に着目して論じ、かつ、〈共に歌う〉文化を支えた思想について論じたものである。
 先ず、うたごえ運動を〈共に踊る〉という側面から検討した。うたごえ運動は、1948年共産党の文化政策の一環として青共中央合唱団が組織されたことに端を発し、労働争議等の政治的な場面で〈共に歌う〉ことを通して展開していった。このように、うたごえ運動は歌を通して広がりを見せた運動であるため、先行研究では、必然的に歌うという側面に焦点が当たる傾向にある。本研究では、共産党の文化政策として歌と踊りを取り入れ、うたごえ運動の指導者である関鑑子とも関わりを持っていた、ぬやま・ひろしという人物に焦点を当てつつ、うたごえ運動を支えた若者像を浮かび上がらせた。その上で、うたごえ運動において、欧米の異文化や性的逸脱等の否定的イメージと結びつくフォークダンスを積極的に取り入れられたのは何故かという問いを立てた。民族舞踊団カチューシャによる歌集、フォークダンス関連の教本等の分析を通して、ダンスが纏う異文化としてのイメージを欧米ではなく、ロシアに求めることで、ダンスが纏う否定的なイメージの脱色を試み、フォークダンスを取り入れることが可能となっていたことを明らかにした。
 次に映画、アニメーションの中にみられる歌を巡る描写に着目し、その中で共通して描かれた〈共に歌う〉という行為の表象は、〈うたごえ〉的なものといかなる関係にあるかという問いを立てた。分析対象としたのは、『ゴジラ』『モスラ』『超時空要塞マクロス愛・覚えていますか』である。以上の映像作品に対する分析から、〈うたごえ〉的文化が下火になった以降のポピュラー・カルチャーにおいて、武力に勝る文化の力という戦後言説的な表象、〈うたごえ〉的エートスが見出せることを明らかにした。
 最後に、各論で見てきた〈共に歌う〉文化を下支えする思想的背景について考察した。楽曲名に「手」という言葉が入る楽曲の分析を通して、〈共に歌う〉文化が、見知らぬ他者とも繋がれるはずだという期待の下、連帯する心性――〈みんな〉という思想の一端として表れていたこと示した。上述のような〈みんな〉という思想は、なぜ時代が下るにつれ下火になっていったのかという問いを立て、CMやマスゲームという言葉、映像作品等の分析を通してそれに答えようと試みた。
 前述の問いへの応答、即ち本研究全体の結論は以下の通りである。基本路線として、皆で身を寄せ合い、前向きに生きていくような、同質性という共同意識で繋がる〈みんな〉は、高度消費社会の到来、社会主義への懐疑等の要因により、1980年頃に忌避され始める。更に、少なくとも1990年頃になると、同質性の強い〈みんな〉を否定する形で多様な個の集合体としての〈みんな〉が想定されるようになる。しかし、現代において多様性を称揚し、同質性が強い〈みんな〉を否定しつつ求め、積極的意味を見出す矛盾した心性も存在する。つまり、〈みんな〉が定義する共同意識の方向感覚が失われていく現状があった。
 
 
16:15-16:40 高橋龍平(東京都立大学大学院 人文科学研究科)
音楽体験の理論化における視覚要素の重要性――〈音響的身体〉の検討を通して
 
 本論は、山田陽一による概念〈音響的身体 acoustic body〉について、「音楽体験における視覚要素の受容」の観点から取り上げ、本概念で捉えきれない音楽体験の個人性や多様性を論じ、より開かれた音楽体験の記述の枠組みとして〈音響的身体〉を拡張することを目的とするものである。
 〈音響的身体〉は、音楽経験の中で音が反響する身体や、音がもたらす様々な感覚を繋ぎ、一体感を生じる身体として定義される(山田『響きあう身体――音楽・グルーヴ・憑依』春秋社、2017年)。これは音楽体験を現象学的に捉えることで、多感覚的な身体経験として分析する試みであるが、この論の複数の場面で山田は、音楽体験における視覚要素の受容に関わる考慮を退けている(同書第4章「ライヴな身体」参照)。そこには西洋近代の視覚中心主義批判から始まるサウンド・スタディーズの理論的基盤と影響を見て取ることができる。しかし今日の音楽体験では、特にポピュラー音楽の分野におけるリップ・シンクなどの事例が示すように、観客に「見られる」ことで成立するものや、大規模な音楽ライヴにおけるスクリーンの受容など、音楽体験と密接に結びつく視覚の問題や影響を無視できない位置にあることも事実である。 そこで本論では同書をもとに、主に観客が音楽ライヴにおいて経験する音楽と視覚要素の「同期/シンク」や視覚的演出、それがもたらす身体経験の個人的かつ多様なあらわれに着目し、〈音響的身体〉の理論的な拡張を試みた。
 第1章では音楽体験における視覚要素の問題として「音源のありかの提示」を題材とし分析した。リック・アルトマンの「音の解釈学」(アルトマン「ムービング・リップス――腹話術としての映画」『表象Vol.16』表象文化論学会、2022年)をもとに、歌唱する身体や楽器のインターフェースに向き合う身体の動きが、その場に響く音響との同期を通じて、自らを仮想的な音源のありかとして示すことを論じ、音楽体験を現象学的に考察する上で無視できない要素であることを示した。
 第2章では、音楽ライヴにおける視覚要素の退けについて、ドイツの音楽グループ・クラフトワークのライヴ映像作品『Minimum-Maximum』を事例に、観客のスクリーン図像の受容の問題から指摘した。その上で、山田が事例として挙げる小規模な空間での音楽体験と、大規模な空間でのそれは異なり、後者の空間でそれぞれの観客がムラをもって経験する〈音響的身体〉を容易に同一視することはできないことを論じた。 第3章では、山田が〈音響的身体〉として提示した事例、「踊る身体」をテーマに〈音響的身体〉の位置づけを見直した。今日のポピュラー音楽とダンスの実践の事例や、そこでみられる共同体のありようを考察することで、その実践が小規模なものに留まらないこと、またその視覚的消費の実態や身体感覚の個人性を示した。
 以上の議論を通じて、本論はこれまで定義された〈音響的身体〉を相対化した上で、音楽体験の視覚的要素の受容をテーマに、音楽空間の広がりが要因となる体験の個人性と多様性を、グラデーションを持ってあらわれる〈音響的身体〉として論じることで本概念を拡張した。
 
 
16:40-17:05 岩間日菜多(武蔵大学社会学部)
神の音を信仰する
 
 ソーシャル・ネットワークの影響を受けて発展してきた文化でありながら,同時にオフラインでの交流にも特徴を持つのが,ボーカロイド文化である.他ジャンルと比較して「布教」をはじめとする「オタク的宗教用語」を良く使用する傾向があるこの文化には,ライブ研究・コンテンツ研究などの,既存の分析では説明しきれない宗教性が潜んでいるのではないだろうか.
 まず,今までのボーカロイド文化の歩みと特徴,過去のライブ研究について触れ,各調査を踏まえて「宗教性」の要素を細分化して定義・分析を行った.外部と隔絶されたコミュニティの内部では,自分らしくいられる環境が守られるという「閉鎖性」,コミュニティの外部からは獲得できないものごとや情報が存在しているという「排除性」,コミュニティを維持するため,規則にあわせて自らがそう振る舞うことを望む「規範性」,時間的・空間的に存在することを権威であり,現代の複製技術と親和性の高い「アウラ」の4つだ.
 初音ミクら(広義の)ボーカロイドは「ピアプロ・ライセンス」をはじめとして著作権の許容値が広いため,数多くのn次創作が生まれ,それがボーカロイド文化の自由な解釈を促進させてきた.この「参加者全員がファンでありクリエイターである」という価値観をもとに,個人が思い思いにコミュニケーションを楽しめる空間の1つに「マジカルミライ」というイベントがある.ボーカロイド文化そのものに関する資料調査と,過去2年分の「マジカルミライ」を記述したフィールドワークを,それぞれ先述の4要素と掛け合わせて共通点・相違点の分析を実施した.
 結果として,ボーカロイド文化自体の特徴,「マジカルミライ」ライブ空間での「神」たるボーカロイドキャラクター(アーティスト)とファン間・ファンとファン間それぞれに生じるやり取り,クリエイターズマーケット(「マジカルミライ」企画展内部で開催される同人誌展示即売会)における「神」であるボカロPとの交流など,「宗教性」の文脈で語ることができる事象が随所に発見された.芸術作品がかつて神と我々を繋ぐメディアであったという特性が引き継がれ,現代の音楽シーンにも神性が存在すること,それが絶えず繰り返されていくことも予測された. 複製技術時代を経て説かれた「メタ複製技術」時代の影響によって今後ボーカロイド楽曲は,ボカロPは,ボーカロイドキャラクターたちは,それぞれより宗教性を強めていくのだろうか,反対に身近な存在としてより大衆化していくのだろうか.そしてそこにわれわれは消費者として,ファンとして,クリエイターとして,どのような影響を及ぼしていくのだろうか.ボーカロイド文化における現実とヴァーチャル,オフラインとオンラインという「世界」に結びつく宗教性に今後も注目していきたい.
 
 
17:05-17:30 北山倫(東京都立大学人文社会学部人文学科表象文化論教室)
VOCALOIDが拡張した〈声〉のあり方について——メディア分析を通じて
 
本論文では、VOCALOIDが拡張した歌声のあり方について考察した。ヤマハが開発した音声合成技術『VOCALOID』は、歌唱する身体を必要とせず手軽に歌声をシミュレートするという音楽実践の可能性を切り開いた。一方で、これまでボーカロイドは製品に付随するキャラクター意匠が自立的な主体=身体とみなされ、それと歌声が一体化した形での受容について言及されることが多く、音響メディアとしての価値や歌声そのものについては十分に論じてこられなかった。そのため、本論はVOCALOIDについて歌うキャラクターとしてではなくメディアのメカニズムや技術史的な背景に焦点を当てた。
問題解決にあたって、本論では主に音響技術史研究とロラン・バルトの「声の肌理」という概念を参照した。前者について、はじめに技術史的な系譜においてもVOCALOIDを発話主体としてとらえる欲望の下に語られてきたことを確認し、ジョナサン・スターンの音響技術史研究を参照することで、本論ではVOCALOIDの音響技術的な系譜を「口モデル」から「耳モデル」へと位置付け直すことを試みた。スターンによれば、口モデルは機械を発話主体として捉え、声の発生原因となる発声器官を模倣するのに対して、人間の耳を模倣した耳モデルの技術は、声を音響振動としてとらえ視覚波形などの様々な表象形態に変換するという性質を備えている。このことをふまえて、VOCALOIDについて歌声がいかなる形態で表象されているかという観点から分析した。
加えて本論はスターンの論を敷衍する形で、19世紀における耳モデルには「中耳モデル」と「内耳モデル」の二つの系譜があったことを確認し、VOCALOIDがこの二つの耳モデルの混淆として捉えうることを示した。中耳モデルは音声の視覚化という欲望の帰結として誕生した機構であり、主に音声を連続的・指標的な視覚表象に変換する。対して内耳モデルは音声を周波数分解することで離散的な信号へと変換する機能を持っている。VOCALOIDにおいては、歌声データのサンプリングが中耳モデルに、合成エンジンが内耳モデルに対応していることを示した。
上で示したメカニズムとの連続性をふまえて、「声の肌理」の論考を参照し、VOCALOIDの歌声における身体性がどのようなものかを考察した。バルト的な意味での「声の肌理」が調音器官の運動に由来する聴触覚的作用によって特徴づけられるのに対し、VOCALOIDにおいては調音器官の連続的な運動は捨象され、声の質的特徴のみが合成エンジンによって離散的にシミュレートされる。そのことによって立ち現れる「平板化」された声の様相が、VOCALOIDの歌声の身体性を特異なものにしていると結論付けた。
また、VOCALOIDの歌声における主体=身体性のイリュージョンが成立する過程について、インターフェイスの記号システムとVOCALOID使用者の認識・操作の関係を分析することで、使用者は歌声を徹底的に分節化された記号体系として客体化する過程を経て、VOCALOIDの音楽作品における歌声の主体=身体性を生み出していると主張した。この成果は、音声合成の音楽や歌声を音響メディア研究の視座から批評する可能性を提示した点で重要である。
 
 
17:30-17:55 夏目雅矢(九州大学芸術工学部芸術工学科音響設計コース)
オープンフィールドゲームを中心としたゲーム音楽におけるモジュールのつながりの種類
 
 オープンフィールドゲームにおける音楽は、プレイヤーの操作や場面ごとに合わせたモジュール(ゲームプレイ中に流れる音楽の単位)の移り変わりが重要となってくる。しかし、ゲーム音楽の移り変わりの様子や構造的な分析に関する研究は比較的少なく、方法も確定しているわけではない。そこで、本研究は、Medina-Gray(2019)をもとにモジュールの移り変わりの場面を複数見出すとともに、ゲームにおけるモジュールのつながりの柔軟性、及びつながりの種類を視覚化することを目的とする。
 本研究では、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(2017年発売)、『ポケットモンスター ヴァイオレット』(2022年発売)、『Pokémon LEGENDS アルセウス』(2022年発売)、『大神 絶景版』(2018年発売)、『Xenoblade Definitive Edition』(2020年発売)の5作品を分析対象とする。フィールド、周辺にある街、戦闘シーンへの移り変わりや、ゲームをプレイ中に見つけた特徴的な場面を分析した。『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』に関しては、フィールド曲が無音に近いため、特徴的な2つの移り変わりの様子を対象とした。
 各移り変わりの場面の録画データ56個から、音声データ93個を抽出し、モジュールが次のモジュールに移る「順次的なつながり」と、別のモジュールが追加、削減される「同時的なつながり」に分類した。「順次的なつながり」では、拍子、テンポ、音色、調、音量、切り替わりを分析し、「同時的なつながり」では、拍子、音色、音量、重なりを分析した。分析後、モジュールの音楽構成、モジュールの移り変わりの様子、モジュールの移り変わりにおけるグリッドの3つの図を作成することで視覚化した。
 分析結果から、モジュールの移り変わりには「時間型」、「移動型」、「状況型」、「戦闘型」、「キャラクター型」の5つに分類することができた。テンポが遅くなり、楽器の数が減ることによる夜の静けさの表現、クロスフェードにより移り変わることによる統一感の表現、音色やメロディにより、そのキャラクターが近くにいることを知らせてくれる表現などが考察できた。次に、モジュールの移り変わり方の技法を6つに分類した。クロスフェードによる移り変わり方や、突然の切り替わりを用いる場面では感じられる印象が大きく違うことを考察した。またクロスフェードも時間の長さにより感じる印象が変わってくることが推測できた。最後に、作品や作曲者による違いや、各作品の特徴から理由や意図を考察した。会社により特徴的な場面があったが、同じ会社でも作品によりモジュールの移り変わり方に差があった。
 今後は、移り変わりの型が実際にどのような効果を生じさせているかを印象調査する必要がある。さまざまなジャンルにおけるモジュールの移り変わりの分析や、型を見つけ出すのも、ゲーム音楽の研究の今後の課題であり、新たな特徴的な型が見つかることを望む。
 
 
──────────────────────────
お問い合わせ 日本ポピュラー音楽学会 研究活動委員会
jaspmkk(a)gmail.com
──────────────────────────